2016年2月18日木曜日

ずっと前から突っ込みたかったこと

大阪弁あるあるは,方言の単語を標準語に置き換えると,普通に,標準語でも同じことが大部分(たとえば「なんや」のコピペなら「なんだ」に置き換えれば関東でもよくみる光景).

女あるあるとかま〜ん(笑)ネタは,性別を置き換えても大抵通じる.というか,同案で性別入れ替えただけのネタとか普通に見かける.たとえば,自動車バッテリーコピペだって,あれ自体は,男女入れ替えても普通にある光景で,むしろ,それをジョークにした時の受け取る側のジェンダーの問題.

国家・国民性ジョークとか県民性とかも,だいたい,その類.

かように,ある特定の集団に固有の性質なんてものはないのでした.ちょっとしたジョークで言っている分にはいいんだけれどね.

2016年2月12日金曜日

耐え難い重さなのか軽さなのか(または,キモい自分語り)

(だいぶ前に書きかけたのを再編.ひとつ前の記事を受けて)

むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.

実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.

そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).

まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.

さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).

いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.

こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.

とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.

あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.


ふつう

先日,大学兼職場の後輩とタバコ吸いながらくっちゃべっていたことの延長なんだけれど,同世代の人間が,みんな普通に大人や社会人になっていてビビる.

別にいわゆる「普通」という言葉云々の話ではなくて,昔のバカなことやってる時代を知っている人が,目に見える範囲ではバカなことしていないっていうのが,怖い.みんな普通に結婚してるし,みんな普通に仕事してるし,みんな普通に子煩悩になっている(具体例はいくらでもあげられるんだけどこのくらいで).これが,猛烈に怖い.

いや,自分も,普通に結婚しているし,普通(?)に働いているんだけれどさ.

なにしろ,その普通の姿が,まるで自分たちの親世代を見ているかのようだから,本当に恐怖を感じる.だって,みんなの価値観が昔,僕らが見ていた大人そのものなんだもの.それが,とても怖い.みんな「僕ら若者のことなんて『大人はわかってくれない』」って思っていたんじゃなかったの?

「自分はそんな『普通の大人』じゃない」みたいに嘯いている人なんて,もしかすると,みんな自覚もなく「俺(私)は若者の感覚を持っているし,わかってるよ?」っていう,自分たちが若かった頃,一番嫌悪していたクソみたいな大人になっているんだよね.

もちろん,僕自身が,普通に大人になっている(そもそも,僕もすでに 30 をとうに超えている)ことも自覚しているからこそ,漠然とした不安と恐怖に慄いているんだけれど,みんな,この恐怖を感じていないんだろうか?それとも,その恐怖を押し殺して生活しているの?

自由なんてまやかしで,自分を叱ってくれる大人たちからは独立してしまって,もちろん,法律なんて犯すことはできないし,そもそも,生きていかなきゃいけないという現状に身動きが取れないとき,結局,型にはまるのが,結局,一番楽で,その型の中で,ちょっとした模様替えや着替えをすることが自分を個性的に彩る全てになるなんて,もう,絶望しかない.

それを否定するわけでもないし,自ら荒野を歩む気なんてないんだけれど,全部,無かったことにして,例えば,全裸で街の中を駆け抜けるような爽快感を懐かしむくらいは,自分に自由でありたいとは思う(比喩であって性的指向の話ではないよ!).

時期柄

時期柄,世の中には進学に関してのアドバイスとか,研究室選びのアドバイスとか,そういうものが氾濫しているけれど,個人的に,特に研究室選びに悩んでいる学部生くらいにひとつだけアドバイスしておく(あくまで,ある程度,研究志向があって,少なくとも卒論・修論の間は研究というものを体験したい,という程度に真面目な子に向けて書いています).

こういう案件だと,やれ「教授の業績を見たほうがいい」とか,やれ「所属している先輩の話を聞いてみよう」とか,やれ「研究内容が自分のやりたい内容と沿うかよく考えよう」とか,もっともらしい正論を語る人がいるんだけれど,そのルートでは,研究室に(言い方は悪いけれど)奴隷が欲しい人たちによって着飾られた耳障りのいい言葉に変換されてしまうので,そんな正攻法を取る前に,研究室に属している院生・教員のツイッターを覗いてみることをお勧めする.

そういうアカウントを探し出すのとか,そもそもつぶやきを読み解くのは技術が必要かもしれないけれど(そして,必ずしも研究室構成員のアカウントがあるわけではないけれど),その研究室に進学する上で,君が知りたいことと,その研究室の実態はかなり深く知ることができると思う.

ちなみに,どう読み解くのかまで詳しく説明してあげるほど,僕は親切ではないので,頑張って読み解いてみてください.

2016年2月11日木曜日

反応速度

最近,ここの更新が激減しているのは,忙しいというのもあるんだけれど,自分の反応速度が低下してしまっていることも大きい(結局,その律速も自分の忙しさではあるんだけれど).なんか思いついても,文字を書いてアップする前に旬が去ってしまうという.日々,そんな感じ.