http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/4818369.html
いおりんの「カナリア諸島にて」が入っていないことに衝撃を隠せない.大滝詠一さんの声は大好きだけど,この曲に限ってはいおりんの方がいいくらい.基本的にいおりんのカバーは当たり多い気がする.「ガーネット」,「Do you remember me?」,「ラビットパニック」あたりもよかったし,「恋愛サーキュレーション」も良かった.
真様好きだから,真様のカバーは基本好きだけれど,「Swallowtail Butterfly」と「ナツノハナ」と「DING DONG」は特に良かったな.「星間飛行」もいい.
思い入れなしで語るならりっちゃんの「東京は夜の七時」とか,ちひゃーの「まっくら森の歌」あたりがハマってたかな(声質だけ.歌唱力についてはノーコメントで).あと,ネタ枠で毛虫の「すいみん不足」とか.俺と同じ誕生日であるところの小鳥さんの「やさしさに包まれたなら」も好き.
……しかし,年単位でアイマス曲とか聞いていなかったのに,声だけで誰か分かるレベルをまだ維持している自分に驚愕.
(※ただし,フォローしているのは MASTER ARTIST2 くらいまで)
2015年1月31日土曜日
広告2
また,ネット広告の話.
iPhone の Safari でスマホ表示にしておくと,サイトの種類に関わらずエロマンガやエロスマホゲームの広告がよく表示されるんだけれど,最近,普通のサイトに表示されるそれらの広告に規制がかかったのか,完全にエロシーンなのにとって付けたような,それこそ Windows Paint で上からてきとーに塗りつぶしただけのような下着が追加されていることに気付いた.
iPhone の Safari でスマホ表示にしておくと,サイトの種類に関わらずエロマンガやエロスマホゲームの広告がよく表示されるんだけれど,最近,普通のサイトに表示されるそれらの広告に規制がかかったのか,完全にエロシーンなのにとって付けたような,それこそ Windows Paint で上からてきとーに塗りつぶしただけのような下着が追加されていることに気付いた.
2015年1月29日木曜日
2015年1月28日水曜日
気になる……
ちょっと前から,電子書籍とか電子貸本とかの広告が多くなった.最近は,マンガの電子書籍出版も増えてきて,自宅の面積的に,電子書籍で購入するのもアリなのかもしれないとか思ったりもするけれど,(槙島さん的思想で)紙の本を捲るのが好きなので,その一歩は,当面,踏み出さないと思う.
ところで,基本的に,そういう広告は無視しているんだけれど,なんとなく目に入ることは多々あって,そういう中で,極稀に,もの凄い展開が気になる数コマ抜粋とかがあったりするのは,完全に広告主の術中にハマっているんだろうな,とか思います.
ところで,基本的に,そういう広告は無視しているんだけれど,なんとなく目に入ることは多々あって,そういう中で,極稀に,もの凄い展開が気になる数コマ抜粋とかがあったりするのは,完全に広告主の術中にハマっているんだろうな,とか思います.
2015年1月27日火曜日
中身(笑)
http://chaos2ch.com/archives/4290700.html
中身(笑).このスレで語られていることは,もはや古典な「動ポモ」一冊で全て解決する気がする.いや,'80〜'90 年代の大塚英志の評論でも十分かも.'00 年代論客は存在を無視して問題ないかと.
まぁ,中身といった場合,一般的には物語の有無ということになるのかな,と想像してしまうんだけれど,「中身がある」って一般的にいわれているのは,物語の喪失した記号の集合的な設定重視の作品が多いのは,たぶん,気のせいではない.作品から与えられた設定という記号を使って,鑑賞者が自分の物語を作品中に投影できる状態のことを「中身がある」といっているのではないかと推測できるからだ.
例えば,「ナウシカ」は,"中身論者" をはじめとして,一般に「映画よりもマンガの方が〜」なんて語られ方をすることが多いけれど,物語が太く全体を貫いているのは映画の方であって,原作後半は,設定厨の宮崎駿によるほとんど物語を喪失している設定消化に過ぎない(「動ポモ」いうところのデータベース消費.この辺は,押野武志の講義を受けた影響が強い.「童貞としての宮沢賢治」あたりに詳しい).ただし,僕は映画の方が好きだけど,だから,原作はダメというわけでもない.結局は,どこに面白さを感じるかということが左右しているのであって,テクストを読むこと,テクストから読み取れる事実に魅力を感じる人にとっては設定の有無は重要ではないし,設定から己の物語を紡ぐこと(=「中身」)に快楽を覚える人にとっては「中身がある」ことが重要なのだろう.僕が後者に相容れないのは,単純に,二次創作文化が嫌いだからなんだけれど,この辺,二次創作文化の展開とも関連が強い気はする.
中身がないことの槍玉に挙げられるのは,いわゆる日常系で,その中でも(売れたから)「けいおん!」は,真っ先に挙げられることが多いように思う.「けいおん!」の描く世界は,架空の女子校の中の架空の世界と捉えれば,耽美主義的な文学や,いわゆる少女小説に近似できるかもしれないし,日常の中に潜む感情の機微を描いていると捉えれば,私小説や純文学的でもあるかもしれない.個人的には,「けいおん!」をはじめとする日常系の作品群は,小津映画的だと思っている.そういう意味では「中身がない」と揶揄されるようなモノは,ほかのメディアでは,さして珍しくもなく,そして,それぞれの分野で一定の評価がなされているものでもある.
ここで,ちょっと面白いなと思うのは,こういった日常系の二次創作が非常に多いことだ.それらの多くは,数少ない設定を高い自由度と解釈して,既存の物語に設定を当てはめることで,「中身」を欠く日常系を「中身論者」の要求を満たすように改変しようとしているように見える(代表的なのは蛸壺屋).この辺,大塚英志辺りが盛んに言っていた「大きな物語を喪失した時代」に生きていかなきゃいけない今の若者が物語の消費欲を満たしているということなのかもしれない.
物語の喪失以降が,ポストモダンだったとすると,「中身がない」と揶揄される作品群は,アニメ(というかサブカルチャー)がようやく脱構築し始めた切っ先ともいえるかもしれないですね(マンガはたぶんもっと古い時期にこの段階に至っているんだけど).
まぁ,こっちにつらつら書いているということは,その程度の妄言ということです.後期クイーン的問題(の第一問題)あたりまで話を伸ばす気力は湧かなかった.
中身(笑).このスレで語られていることは,もはや古典な「動ポモ」一冊で全て解決する気がする.いや,'80〜'90 年代の大塚英志の評論でも十分かも.'00 年代論客は存在を無視して問題ないかと.
まぁ,中身といった場合,一般的には物語の有無ということになるのかな,と想像してしまうんだけれど,「中身がある」って一般的にいわれているのは,物語の喪失した記号の集合的な設定重視の作品が多いのは,たぶん,気のせいではない.作品から与えられた設定という記号を使って,鑑賞者が自分の物語を作品中に投影できる状態のことを「中身がある」といっているのではないかと推測できるからだ.
例えば,「ナウシカ」は,"中身論者" をはじめとして,一般に「映画よりもマンガの方が〜」なんて語られ方をすることが多いけれど,物語が太く全体を貫いているのは映画の方であって,原作後半は,設定厨の宮崎駿によるほとんど物語を喪失している設定消化に過ぎない(「動ポモ」いうところのデータベース消費.この辺は,押野武志の講義を受けた影響が強い.「童貞としての宮沢賢治」あたりに詳しい).ただし,僕は映画の方が好きだけど,だから,原作はダメというわけでもない.結局は,どこに面白さを感じるかということが左右しているのであって,テクストを読むこと,テクストから読み取れる事実に魅力を感じる人にとっては設定の有無は重要ではないし,設定から己の物語を紡ぐこと(=「中身」)に快楽を覚える人にとっては「中身がある」ことが重要なのだろう.僕が後者に相容れないのは,単純に,二次創作文化が嫌いだからなんだけれど,この辺,二次創作文化の展開とも関連が強い気はする.
中身がないことの槍玉に挙げられるのは,いわゆる日常系で,その中でも(売れたから)「けいおん!」は,真っ先に挙げられることが多いように思う.「けいおん!」の描く世界は,架空の女子校の中の架空の世界と捉えれば,耽美主義的な文学や,いわゆる少女小説に近似できるかもしれないし,日常の中に潜む感情の機微を描いていると捉えれば,私小説や純文学的でもあるかもしれない.個人的には,「けいおん!」をはじめとする日常系の作品群は,小津映画的だと思っている.そういう意味では「中身がない」と揶揄されるようなモノは,ほかのメディアでは,さして珍しくもなく,そして,それぞれの分野で一定の評価がなされているものでもある.
ここで,ちょっと面白いなと思うのは,こういった日常系の二次創作が非常に多いことだ.それらの多くは,数少ない設定を高い自由度と解釈して,既存の物語に設定を当てはめることで,「中身」を欠く日常系を「中身論者」の要求を満たすように改変しようとしているように見える(代表的なのは蛸壺屋).この辺,大塚英志辺りが盛んに言っていた「大きな物語を喪失した時代」に生きていかなきゃいけない今の若者が物語の消費欲を満たしているということなのかもしれない.
物語の喪失以降が,ポストモダンだったとすると,「中身がない」と揶揄される作品群は,アニメ(というかサブカルチャー)がようやく脱構築し始めた切っ先ともいえるかもしれないですね(マンガはたぶんもっと古い時期にこの段階に至っているんだけど).
まぁ,こっちにつらつら書いているということは,その程度の妄言ということです.後期クイーン的問題(の第一問題)あたりまで話を伸ばす気力は湧かなかった.
字幕のはなし
補足.
字幕については,数々の名(迷?)翻訳を生み出してきたことを,もっと評価するべきだと思う.
例えば,分かりやすい例だと,"Here is looking at you, kid." を「君の瞳に乾杯」と訳したとしても,それを声優が日本語で発話してしまっていたとしたら,たぶん,こんなに語り継がれる名台詞としては残っていないのじゃないかと.耳でハンフリー・ボガードの賺したイケメンボイスを聞いて,異国のキラキラした世界でイケメンと美女が囁きあっているという雰囲気に浮かれているからこそ「君の瞳に乾杯」が,際立つものだと思うわけです.これが日本語で発話されていたら,いくら絵が異国のイケメン美女であっても日本語の響きにどこか日常を想起させられてしまうのではないかと.
字幕については,数々の名(迷?)翻訳を生み出してきたことを,もっと評価するべきだと思う.
例えば,分かりやすい例だと,"Here is looking at you, kid." を「君の瞳に乾杯」と訳したとしても,それを声優が日本語で発話してしまっていたとしたら,たぶん,こんなに語り継がれる名台詞としては残っていないのじゃないかと.耳でハンフリー・ボガードの賺したイケメンボイスを聞いて,異国のキラキラした世界でイケメンと美女が囁きあっているという雰囲気に浮かれているからこそ「君の瞳に乾杯」が,際立つものだと思うわけです.これが日本語で発話されていたら,いくら絵が異国のイケメン美女であっても日本語の響きにどこか日常を想起させられてしまうのではないかと.
2015年1月26日月曜日
字幕と吹き替え
字幕か吹き替えかで論争になることがあるけれど,基本的に字幕派.字幕の情報量の少なさとか,訳の拙さとかは,まぁ,頑張って聞き取れば,そんなに問題ではないかと(※).それより,声という役者の演技の大部分を占める要素を他人のもので代替したんじゃ,役者にも監督にも失礼じゃないかと思うのです.ぶっちゃけ,なに喋ってるか分かんなくたって,演技や映画は楽しめると思うの.一回見て,内容把握してる映画なら字幕も消すよ.
でも,アクションとか,演技を気にしない映画は吹き替えの方が気楽でいいかも.アニメも吹き替えでいいかな……(日本の声優業界の層の厚さ的な意味で).
--
(※)長セリフとか,堅苦しい独白とか,小難しい議論とかは,制作者側も "聞けるように" 撮るから意外と楽に聞き取れるんだけれど,日常会話はぼちぼちで,どーでもいい(言い争っていることが伝わればいいような)クロストークとか,展開が急な場面での短い言葉の応酬とかは,かなり難しいから字幕に頼る感じ(そういう場面は字幕の少ない情報量でも構わないし). あと,訛りの強い役者さんのセリフはお手上げ,字幕様万歳という程度.
でも,アクションとか,演技を気にしない映画は吹き替えの方が気楽でいいかも.アニメも吹き替えでいいかな……(日本の声優業界の層の厚さ的な意味で).
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(※)長セリフとか,堅苦しい独白とか,小難しい議論とかは,制作者側も "聞けるように" 撮るから意外と楽に聞き取れるんだけれど,日常会話はぼちぼちで,どーでもいい(言い争っていることが伝わればいいような)クロストークとか,展開が急な場面での短い言葉の応酬とかは,かなり難しいから字幕に頼る感じ(そういう場面は字幕の少ない情報量でも構わないし). あと,訛りの強い役者さんのセリフはお手上げ,字幕様万歳という程度.
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