2015年1月27日火曜日

中身(笑)

http://chaos2ch.com/archives/4290700.html

中身(笑).このスレで語られていることは,もはや古典な「動ポモ」一冊で全て解決する気がする.いや,'80〜'90 年代の大塚英志の評論でも十分かも.'00 年代論客は存在を無視して問題ないかと.

まぁ,中身といった場合,一般的には物語の有無ということになるのかな,と想像してしまうんだけれど,「中身がある」って一般的にいわれているのは,物語の喪失した記号の集合的な設定重視の作品が多いのは,たぶん,気のせいではない.作品から与えられた設定という記号を使って,鑑賞者が自分の物語を作品中に投影できる状態のことを「中身がある」といっているのではないかと推測できるからだ.

例えば,「ナウシカ」は,"中身論者" をはじめとして,一般に「映画よりもマンガの方が〜」なんて語られ方をすることが多いけれど,物語が太く全体を貫いているのは映画の方であって,原作後半は,設定厨の宮崎駿によるほとんど物語を喪失している設定消化に過ぎない(「動ポモ」いうところのデータベース消費.この辺は,押野武志の講義を受けた影響が強い.「童貞としての宮沢賢治」あたりに詳しい).ただし,僕は映画の方が好きだけど,だから,原作はダメというわけでもない.結局は,どこに面白さを感じるかということが左右しているのであって,テクストを読むこと,テクストから読み取れる事実に魅力を感じる人にとっては設定の有無は重要ではないし,設定から己の物語を紡ぐこと(=「中身」)に快楽を覚える人にとっては「中身がある」ことが重要なのだろう.僕が後者に相容れないのは,単純に,二次創作文化が嫌いだからなんだけれど,この辺,二次創作文化の展開とも関連が強い気はする.

中身がないことの槍玉に挙げられるのは,いわゆる日常系で,その中でも(売れたから)「けいおん!」は,真っ先に挙げられることが多いように思う.「けいおん!」の描く世界は,架空の女子校の中の架空の世界と捉えれば,耽美主義的な文学や,いわゆる少女小説に近似できるかもしれないし,日常の中に潜む感情の機微を描いていると捉えれば,私小説や純文学的でもあるかもしれない.個人的には,「けいおん!」をはじめとする日常系の作品群は,小津映画的だと思っている.そういう意味では「中身がない」と揶揄されるようなモノは,ほかのメディアでは,さして珍しくもなく,そして,それぞれの分野で一定の評価がなされているものでもある.

ここで,ちょっと面白いなと思うのは,こういった日常系の二次創作が非常に多いことだ.それらの多くは,数少ない設定を高い自由度と解釈して,既存の物語に設定を当てはめることで,「中身」を欠く日常系を「中身論者」の要求を満たすように改変しようとしているように見える(代表的なのは蛸壺屋).この辺,大塚英志辺りが盛んに言っていた「大きな物語を喪失した時代」に生きていかなきゃいけない今の若者が物語の消費欲を満たしているということなのかもしれない.

物語の喪失以降が,ポストモダンだったとすると,「中身がない」と揶揄される作品群は,アニメ(というかサブカルチャー)がようやく脱構築し始めた切っ先ともいえるかもしれないですね(マンガはたぶんもっと古い時期にこの段階に至っているんだけど).

まぁ,こっちにつらつら書いているということは,その程度の妄言ということです.後期クイーン的問題(の第一問題)あたりまで話を伸ばす気力は湧かなかった.

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