某漫画家(というか,自分がその人を知ったころは,主に 2ch に生息する趣味の悪い,頭のおかしい(褒め言葉)絵描きの一人だったのだけれど)の書いているキャラに,とうとう CV がついたという話を聞いて,すごい時間の流れを感じる.
特に,自分はこのキャラが生まれ落ちたころから知っているレベルに追っかけているので,なんか,すごい変な気分.→ 証拠
でも,まぁ,昔から見ている人間からすると,一般誌に連載されるようになって以降の長瀞さんは,初期から知っている身からすると,まぁ,別物だよね……とか,うざい人になってみようと思ったんだけれど,敬愛する天才声優・黒沢ともよ先生の演技が最高だったので,なんか,どうでもよくなった.
2019年2月8日金曜日
2016年6月2日木曜日
が通る
「はいからさんが通る」の映画とか普通に楽しみすぎる.ただ,懸念しているのは,今風の絵柄になってしまうのではないかということ.流石に,時代遅れと言われても仕方がない,いかにも昔の少女漫画絵というわけにはいかないのだろうけれど,せめて,最近の大和和紀先生の絵柄に近づけるとか,そのくらいの努力はして欲しいと思っているんだけれど(それはそれで,酒乱ギャグシーンとかが違和感ありそうだけれど),ネットニュースに出てきたキービジュアルの雰囲気が,いかにもアニメ塗りで,いかにも悪いほうに今風になっている雰囲気が感じられて,なんとも言えない.
劇場版なんだから,せめて,アニメ塗りはやめないか,と.水彩風とかならあり.
あと,あらすじだけにすると,かなり美しい話ではあるけれど,基本的にドタバタコメディーという路線を忘れて,ストーリーのほうを重視するのもやめて欲しいなぁ.
声優については,忍とか青江(とか蘭丸)の声を当てそうな人は何人か思いつくけれど(割と一昔前のベタな配役のほうがいい気がする),紅緒の声は,ぴったりくる声優が思いつかない.悠木碧はありそうだし,いい役者だからそれなりに演じてくれる気がするけれど,イメージが合うかというと疑問.沢城とかいうカス役者だったら見ない.
劇場版なんだから,せめて,アニメ塗りはやめないか,と.水彩風とかならあり.
あと,あらすじだけにすると,かなり美しい話ではあるけれど,基本的にドタバタコメディーという路線を忘れて,ストーリーのほうを重視するのもやめて欲しいなぁ.
声優については,忍とか青江(とか蘭丸)の声を当てそうな人は何人か思いつくけれど(割と一昔前のベタな配役のほうがいい気がする),紅緒の声は,ぴったりくる声優が思いつかない.悠木碧はありそうだし,いい役者だからそれなりに演じてくれる気がするけれど,イメージが合うかというと疑問.沢城とかいうカス役者だったら見ない.
2016年3月10日木曜日
単純な話
なんかヒット作が出ると,分析と称したまわりっくどい文章が出回るのが,最近のサブカル界隈だけれど,最近,その層はおそ松さんにご熱心な模様.
まぁ,最近,大ヒットといえるようなアニメがない中で,頭一つ抜けている感がある.年寄りの僕から見ると,少し前の大ヒットで思いつくのは「SHIROBAKO」あたりだけれど,これがちょうど一年前の作品だ.毎年,4 クール,200 本以上のアニメが作られる中で,記憶に残るアニメがこれだけ少ないと,まぁ,それに群がる人も多かろうと思う.
で,まぁ,おそ松さん.
個人的には,別段,原作・過去のアニメに思い入れなんぞはないし,下らなくて,肩の力を抜いて見られて,適度に笑えるので,毎週,楽しみにしている感じだけれど,これが受けている理由に関して,的を得た論評を見たことがない.
たとえ,低レベルで,シモが多くて,お子様向けとはいっても,単純に「笑える」レベルのギャグを提供できているコンテンツであるという点を無視して,どうでもいい要素にばっかり注目する論評が多いのかが疑問だ.ギャグアニメって下らなかろうが,下劣だろうが,シモだろうが,なんだろうが,大勢(しかも,視聴者って子供が多いの)を笑わせれば勝ちだってことなのさ(いろいろ技巧をつくしたお笑いって笑う人は笑わせられても,笑わせる人数は稼げないのよ).それに加えて,基本的に,声優の質も高いし,絵も綺麗だし,少し褪せた雰囲気の色使いも悪くないし,細部まで絵・デザインのノリに統一感があって,音楽はセンスがいい,という枝葉の大事なところは締めているアニメな印象.
まぁ,ここまで丁寧に作ってあれば,そりゃ,売れるよ,という単純な話.
--
これが「出来ている!」って言い張っていたのに売れなかった多数のアニメは,大概,製作に大きな権力を振るえる人の独り善がりになっている例が多いよね.どの作品とか,そういうことは長くなるから言わないけれど.
まぁ,最近,大ヒットといえるようなアニメがない中で,頭一つ抜けている感がある.年寄りの僕から見ると,少し前の大ヒットで思いつくのは「SHIROBAKO」あたりだけれど,これがちょうど一年前の作品だ.毎年,4 クール,200 本以上のアニメが作られる中で,記憶に残るアニメがこれだけ少ないと,まぁ,それに群がる人も多かろうと思う.
で,まぁ,おそ松さん.
個人的には,別段,原作・過去のアニメに思い入れなんぞはないし,下らなくて,肩の力を抜いて見られて,適度に笑えるので,毎週,楽しみにしている感じだけれど,これが受けている理由に関して,的を得た論評を見たことがない.
たとえ,低レベルで,シモが多くて,お子様向けとはいっても,単純に「笑える」レベルのギャグを提供できているコンテンツであるという点を無視して,どうでもいい要素にばっかり注目する論評が多いのかが疑問だ.ギャグアニメって下らなかろうが,下劣だろうが,シモだろうが,なんだろうが,大勢(しかも,視聴者って子供が多いの)を笑わせれば勝ちだってことなのさ(いろいろ技巧をつくしたお笑いって笑う人は笑わせられても,笑わせる人数は稼げないのよ).それに加えて,基本的に,声優の質も高いし,絵も綺麗だし,少し褪せた雰囲気の色使いも悪くないし,細部まで絵・デザインのノリに統一感があって,音楽はセンスがいい,という枝葉の大事なところは締めているアニメな印象.
まぁ,ここまで丁寧に作ってあれば,そりゃ,売れるよ,という単純な話.
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これが「出来ている!」って言い張っていたのに売れなかった多数のアニメは,大概,製作に大きな権力を振るえる人の独り善がりになっている例が多いよね.どの作品とか,そういうことは長くなるから言わないけれど.
2016年2月12日金曜日
耐え難い重さなのか軽さなのか(または,キモい自分語り)
(だいぶ前に書きかけたのを再編.ひとつ前の記事を受けて)
むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.
実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.
そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).
まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.
さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).
いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.
こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.
とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.
あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.
むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.
実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.
そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).
まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.
さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).
いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.
こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.
とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.
あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.
2015年5月20日水曜日
せいゆう
最近,黒沢ともよの演技が好き.意図してやれているくらい芸達者なのか,偶然,ハマったのかはわからないけれど,「ユーフォ」の主人公のブツブツ独り言系失言女子のバランス感覚がとてもいい(他の演技をほとんど知らないから,奇跡のバランスか,演技指導の妙の可能性もある).
なにより,意識してか知らずか,声のトーンとダイナミクスのコントロールが絶妙.特に,ダイナミクスを演技できるレベルの声優って,ベテランでも少ないから超貴重(というか,ベテランほど極端に声の強弱を変化させることを怖がって,声を張りがちな傾向がある.たぶん,声優が舞台俳優崩れだった頃の名残.高性能のマイクで音を拾ってる環境なんだから云々.正しいピアニッシモが弾けないピアニストは云々 [以下長くなるからカット]).
とりあえず,しばらく,要チェック.
なにより,意識してか知らずか,声のトーンとダイナミクスのコントロールが絶妙.特に,ダイナミクスを演技できるレベルの声優って,ベテランでも少ないから超貴重(というか,ベテランほど極端に声の強弱を変化させることを怖がって,声を張りがちな傾向がある.たぶん,声優が舞台俳優崩れだった頃の名残.高性能のマイクで音を拾ってる環境なんだから云々.正しいピアニッシモが弾けないピアニストは云々 [以下長くなるからカット]).
とりあえず,しばらく,要チェック.
2015年1月26日月曜日
字幕と吹き替え
字幕か吹き替えかで論争になることがあるけれど,基本的に字幕派.字幕の情報量の少なさとか,訳の拙さとかは,まぁ,頑張って聞き取れば,そんなに問題ではないかと(※).それより,声という役者の演技の大部分を占める要素を他人のもので代替したんじゃ,役者にも監督にも失礼じゃないかと思うのです.ぶっちゃけ,なに喋ってるか分かんなくたって,演技や映画は楽しめると思うの.一回見て,内容把握してる映画なら字幕も消すよ.
でも,アクションとか,演技を気にしない映画は吹き替えの方が気楽でいいかも.アニメも吹き替えでいいかな……(日本の声優業界の層の厚さ的な意味で).
--
(※)長セリフとか,堅苦しい独白とか,小難しい議論とかは,制作者側も "聞けるように" 撮るから意外と楽に聞き取れるんだけれど,日常会話はぼちぼちで,どーでもいい(言い争っていることが伝わればいいような)クロストークとか,展開が急な場面での短い言葉の応酬とかは,かなり難しいから字幕に頼る感じ(そういう場面は字幕の少ない情報量でも構わないし). あと,訛りの強い役者さんのセリフはお手上げ,字幕様万歳という程度.
でも,アクションとか,演技を気にしない映画は吹き替えの方が気楽でいいかも.アニメも吹き替えでいいかな……(日本の声優業界の層の厚さ的な意味で).
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(※)長セリフとか,堅苦しい独白とか,小難しい議論とかは,制作者側も "聞けるように" 撮るから意外と楽に聞き取れるんだけれど,日常会話はぼちぼちで,どーでもいい(言い争っていることが伝わればいいような)クロストークとか,展開が急な場面での短い言葉の応酬とかは,かなり難しいから字幕に頼る感じ(そういう場面は字幕の少ない情報量でも構わないし). あと,訛りの強い役者さんのセリフはお手上げ,字幕様万歳という程度.
2014年12月3日水曜日
死んでから 20 年くらいしか経ってないからね……
某アニメで「これを女性だけで演じるって面白い」的なセリフ(と内容改変を示唆する描写)が出てきた時点で,「ん?」とは思ったんだけど,やっぱりね.やらかしたあとに謝罪って流れを,僕程度の観劇経験者でも聞いたことがある程度に激烈に著作権管理が厳しいことを制作者が知らなかったわけはないと思うんだけどな.
2014年8月25日月曜日
2014年8月11日月曜日
イメージを食って生きている
まだ,書こうと思っていることが上手くまとまっていないのでこっち.
--
何かを生み出すとか,表現するとかには経験が大事だと多くの人は考えているし,それは,当然,生み出したものに付随する付加価値として意味がある.だから,著名な創作者の多くは,「若いうちに色々な経験をしろ」とか,そういった類いの言葉を残している.しかし,一方で,例えば藤子・F・不二雄先生の言葉の様に「経験をしていない人の生み出すものが見たい(うろ覚えなのでニュアンスで)」という類いの発言も色々ある.いつだったか,宇多田ヒカルが「『First Love』を書いたときには恋なんてしたことなかったよ」的な発言をしたというのも見たことがある.
下世話な話をすれば,人を殺したことのある作家や演技者や視聴者や読者なんてほとんど居ないのにも関わらず,それを表現したり,その表現に共感したり感動したりすることも出来るし,逆に上手く表現できなかったり,それを見て下手だと感じることも出来る,ということだろう.
例えば,表現のなかで演技に焦点を絞る.
演技には,大きく分けてふたつほど大きな潮流がある.ひとつはシェークスピアを頂点とするイギリス演劇の,いわば,如何に素晴らしく脚本を読み上げるのか,という考え方.もうひとつは,いわゆるメソッド演技だ(※).もちろん,もっと細かい分類は出来るし,亜流は無数に存在する(例えば,日本映画の演技っていうのは,世界の演技の潮流の中ではかなり特殊な部類だし,もっと分かりやすいのでいえば,インド映画の演技なんて斜め上の方向に天元突破しているのは見たことのある人なら分かるだろう).
(※)いわゆる演技力とかいわれるのは大抵こっち.概念を説明するのは難しいけれど,役者が役に「なりきって」感情を発露するという考え方.「リアリティー」と言ってもいいけど,やや違って,演技をもって観客を「納得させる」表現をとるということ.例えば,泣きわめいている人間がセリフを発話できるのはおかしいから,セリフを明瞭に言わない,みたいな.ただ,この考え方は役者の精神的な負担が大きくて,色々問題があるとか言われているし,実際に,死者も出している(最近だと,ヒース・レジャーの自殺なんかもこれが遠因だといわれている).
イギリス演劇系の演技とメソッド演技は,一般に,対立とまではいわないけれど,別の方法論だとは思われている.でも,実際,どちらかの演技を極めたような役者は,もう片方の方法論にたっても「上手い」ことが多く,結局,演技(表現)の目指すところは同じだといえる.
じゃあ,その目指すところというのがなにか,ということなんだけれど,それは見る人間のなかの「絶対多数のイメージ」なのだろう.もちろん,何かの演技(表現)と同じ経験をした人もいるし,演技(表現)者がそれを経験したことがある場合もあるだろうけれど(ごく日常的なものであればそれも多いだろう),ぶっ飛んだ,さっきの例を引くなら殺人のような,ほとんどの人が経験したことのない事象を演じる(表現する)ためには,「イメージ」に沿わなければ,それが上手いとは思われない.例えば,リアリティーを極めるために殺人犯にたくさん取材をしたところで,観客の「イメージするリアリティー」とズレていれば,上手い表現とは思われないだろうということ.
僕が分かるところでいえば,「天才」の表現なんかが当てはまる.僕は,ガチの「天才」といえるような滅茶苦茶に頭のいい人を見たことがあるので,「天才」を表現しているものを見てもピンと来ないことが多いけれど(要はちっとも天才には見えない),そんな表現でも評価されているところをみると,多くの人のイメージする「天才」像はこうなんだろうな,と思う.逆に僕が知っている「天才」を役者に表現してもらっても,誰の共感も得られなくて,下手と感じられるんではないだろうかと.
客はイメージを食う生き物である.
だから,客層に合わせて,同じものを表すのに複数の表現が存在するのであるから,逆にいうと,表現者は客層のイメージに合わせて表現しないと売れるものは作れない.よって,漫画家を表現するときには付けペンに墨汁が必須なのだろう.QED.
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何かを生み出すとか,表現するとかには経験が大事だと多くの人は考えているし,それは,当然,生み出したものに付随する付加価値として意味がある.だから,著名な創作者の多くは,「若いうちに色々な経験をしろ」とか,そういった類いの言葉を残している.しかし,一方で,例えば藤子・F・不二雄先生の言葉の様に「経験をしていない人の生み出すものが見たい(うろ覚えなのでニュアンスで)」という類いの発言も色々ある.いつだったか,宇多田ヒカルが「『First Love』を書いたときには恋なんてしたことなかったよ」的な発言をしたというのも見たことがある.
下世話な話をすれば,人を殺したことのある作家や演技者や視聴者や読者なんてほとんど居ないのにも関わらず,それを表現したり,その表現に共感したり感動したりすることも出来るし,逆に上手く表現できなかったり,それを見て下手だと感じることも出来る,ということだろう.
例えば,表現のなかで演技に焦点を絞る.
演技には,大きく分けてふたつほど大きな潮流がある.ひとつはシェークスピアを頂点とするイギリス演劇の,いわば,如何に素晴らしく脚本を読み上げるのか,という考え方.もうひとつは,いわゆるメソッド演技だ(※).もちろん,もっと細かい分類は出来るし,亜流は無数に存在する(例えば,日本映画の演技っていうのは,世界の演技の潮流の中ではかなり特殊な部類だし,もっと分かりやすいのでいえば,インド映画の演技なんて斜め上の方向に天元突破しているのは見たことのある人なら分かるだろう).
(※)いわゆる演技力とかいわれるのは大抵こっち.概念を説明するのは難しいけれど,役者が役に「なりきって」感情を発露するという考え方.「リアリティー」と言ってもいいけど,やや違って,演技をもって観客を「納得させる」表現をとるということ.例えば,泣きわめいている人間がセリフを発話できるのはおかしいから,セリフを明瞭に言わない,みたいな.ただ,この考え方は役者の精神的な負担が大きくて,色々問題があるとか言われているし,実際に,死者も出している(最近だと,ヒース・レジャーの自殺なんかもこれが遠因だといわれている).
イギリス演劇系の演技とメソッド演技は,一般に,対立とまではいわないけれど,別の方法論だとは思われている.でも,実際,どちらかの演技を極めたような役者は,もう片方の方法論にたっても「上手い」ことが多く,結局,演技(表現)の目指すところは同じだといえる.
じゃあ,その目指すところというのがなにか,ということなんだけれど,それは見る人間のなかの「絶対多数のイメージ」なのだろう.もちろん,何かの演技(表現)と同じ経験をした人もいるし,演技(表現)者がそれを経験したことがある場合もあるだろうけれど(ごく日常的なものであればそれも多いだろう),ぶっ飛んだ,さっきの例を引くなら殺人のような,ほとんどの人が経験したことのない事象を演じる(表現する)ためには,「イメージ」に沿わなければ,それが上手いとは思われない.例えば,リアリティーを極めるために殺人犯にたくさん取材をしたところで,観客の「イメージするリアリティー」とズレていれば,上手い表現とは思われないだろうということ.
僕が分かるところでいえば,「天才」の表現なんかが当てはまる.僕は,ガチの「天才」といえるような滅茶苦茶に頭のいい人を見たことがあるので,「天才」を表現しているものを見てもピンと来ないことが多いけれど(要はちっとも天才には見えない),そんな表現でも評価されているところをみると,多くの人のイメージする「天才」像はこうなんだろうな,と思う.逆に僕が知っている「天才」を役者に表現してもらっても,誰の共感も得られなくて,下手と感じられるんではないだろうかと.
客はイメージを食う生き物である.
だから,客層に合わせて,同じものを表すのに複数の表現が存在するのであるから,逆にいうと,表現者は客層のイメージに合わせて表現しないと売れるものは作れない.よって,漫画家を表現するときには付けペンに墨汁が必須なのだろう.QED.
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