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2026年3月11日水曜日

片付けとかのときのあれ

引越し、なのである。

実に13年ぶり。13年前には、骨を埋めるつもりで北の大地に試されに来たのであったのだが、いや、そんな大層な覚悟は持っていたわけではないが、とにかく、世情の流転に右往左往のうちに、故あって、脱北することになった。

人生、自分のあり方を、こんな形と自由に思い描いていた青春は去り、凡その見通しが立ってしまいもがくことをやめ、自分の形が定まったつもりの中年に差し掛かって、また、別な形を求めることになるのは、中々に骨が折れるようにも思うが、楽しさもまだ抱ける気がしている。もう数年ずれていたら、形を変えようという気力なんて湧かなかった気がする。

13年は、一般的には短いのだろうが、自分史を振り返ると、ひとつ所に、こんなに長くいたことはない。仙台から持ってきた荷物の約2倍に膨れ上がった文献類を整理しつつ、ここで過ごした時間が圧しかかる。まずいね。何がまずいって、終わる気がしない。

さて、引っ越すこと自体は、だいぶ前には決まっていたはずなのに、いま、慌てて作業をしているのはなぜだろう。

そして、数日後には引越し先にいるはずなのに、一向に片付く気配を見せない部屋の中で、悠長にこんな文章をしたためているのは、一体、なぜだろう。

2023年2月26日日曜日

最近の私,と趣味の話

なんか,しばらく書いていなかったのでぼちぼち近況を.

基本的には,なにも変わっていない日々を過ごしておりまして,特筆すべきことはないといってしまえばなく,そもそも,この稿を書き始める意義すら失われるという.

変わった,といえば,多忙すぎてアニメを見なくなってしまったという点が挙げられるかも.最近だと,リコリコとぼっちくらいしか見ていません.百合好きだからリコリコ見てるのか,と思われるかも知れないけれど,個人的にはあの二人はそこまで琴線に触れなかった.ただし,虹ぼは正義.

来期は,原作を追っている僕ヤバと放課後インソムニアがやるので見るかも知れないけれど,どっちも原作の雰囲気が好きな作品なので,アニメとして見たいかというととっても微妙.特にのりお作品は,過去に大失敗しているしなぁ.そして,インソムニアも,白丸先輩は正義であることを表現しきれるとは思えない.

2022年6月11日土曜日

自分のことを客観視しないから人は生きていける

 実は先日,仕事がらみでテレビカメラに写ったのだけれど,たぶん,オタク特有の早口でしゃべる 100 kg 超のデブが写っている映像なので,そんな現実は直視せずに生きていたい私は,その映像を見ることはないでしょう(そもそもテレビ持っていない).

なお,すでに放映は終了しているので,たまたま見た人以外は,見ることはないはず.

しかし,テレビに映る仕事の人って,常に自分(の仕事)を客観視しながら生きているって考えると「すげーな」と思う.

2022年5月25日水曜日

シン・ウルトラマン

世代的にはまったく「ウルトラマン」直撃世代ではないんですけれど,子供の頃,再放送でみていたウルトラマンが大好きだった人です.ほかの特撮に,さほど思い入れはなかったし,一部を除いて(※),覚えてもいないんだけれど,ウルトラマンだけは好きだったんです.不思議.

(※仮面ライダーでいえばBlack~RX 世代,リアルタイムにウルトラシリーズはない時代なので,特撮的には谷間世代)

で,まぁ,「シン・ウルトラマン」をみてきたわけです.

……なんだろう.知ってはいたんですが,この映画,なんかダメでした.どこがどうダメかとか,具体的にいいつのることはできるんだけれど,そういうことをする気も起きないくらいダメ.たぶんだけれど,制作陣と私の間のウルトラマンとか科特隊とか怪獣とかに感じていた「カッコよさ」が根本的にズレているんだろうな,という感じ.

私は子供時代に「ウルトラマン」を子供として楽しんでいたきりだったのに対して(※※),一定程度に成熟した後にも「ウルトラマン」を繰り返してみていた特撮オタクとの差なのかな,と.

(※※子供時代とはいえ,何度も録画をみていたし,記憶力がいい子だったので,いまでもストーリーの詳細を思い出せる程度には覚えている)

ちなみに,同行者が,「ウルトラマン」を全く通ったことがない人だったけれど,私みたいに「ダメ」「肌に合わない」ってほどの拒否感はなさそうだったけれど,「普通」「特段,面白いと思わない」くらいの感じでした.なお,帰り道で映画のネタ元というか,原作の話をしたら,「旧作をみたくなった」とのことなので,旧作のプロモーションムービーとしては意味があったのかもしれませんね.

2020年8月1日土曜日

平成という時代の個人史

そろそろ誰も平成がどうとか令和がどうとか言わなくなった頃なので,少しそんな話を.

私くらいの年代(30代半ば)は,平成という時代に育ち,平成という時代を最初から最後まで見ることができた一番若い世代だと思う.物心ついた頃に,昭和末期の空気をなんとなく嗅いで,一番物事を吸収する年代を平成とともに歩んで,平成の中盤に青春を過ごし,平成末期の社会の一員となった世代.

今の時代,こういう場など,個人が容易に記録を残すことができる場が増えた.

もちろん,イコール,その記録が残り続けるわけではないけれど,デジタルネイティブな我々が,みんなで,ただ,盲目的に個人史をどこかに残すだけで,日本の平成史を厚い記録として残せるんじゃないかと思ったりするのです.

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個人的な感想だけれど,平成という時代を一言で表すと「狂気」だよね,と思うワタクシ.

小屋が欲しい

家が欲しいとかは思ったことはないけれど,小屋が欲しいとは思う.

立原道造の「ヒヤシンス・ハウス」とか,ル・コルビュジエのカップ・マルタンの「休暇小屋」とかみたいやつ.

狭い空間に,デスクと書棚,作業机くらいを置いて,ベッドとトイレがあって引きこもれるような.あと,顕微鏡も欲しいかな.で,ネットとかラジオとかもない.ただ,本を読んだり,ものを書いたり,顕微鏡を覗いたりで過ごせる場所.

マジで,二束三文の田舎の土地買って,小屋だけ建てたい.

2019年8月25日日曜日

突然書くし,唐突に書かなくなるよ

まぁ,そんなもんです.

こういうところに文章を書いていないと,どんどん自分がバカになってきているような気がするので,そういうタイミングで書き始めるようになるものだと思っていただければ.

2019年3月24日日曜日

世代

完全に若者ではなくなったという事実は,明確に数字(年齢)で定義される本当の若者と会話をするとわかるんだな,とひしひしと感じる今日この頃.

単純に生きている時代の差だけではない何かが,10年の年齢ギャップにはある.

2019年2月8日金曜日

うざい人になってみる

某漫画家(というか,自分がその人を知ったころは,主に 2ch に生息する趣味の悪い,頭のおかしい(褒め言葉)絵描きの一人だったのだけれど)の書いているキャラに,とうとう CV がついたという話を聞いて,すごい時間の流れを感じる.

特に,自分はこのキャラが生まれ落ちたころから知っているレベルに追っかけているので,なんか,すごい変な気分.→ 証拠

でも,まぁ,昔から見ている人間からすると,一般誌に連載されるようになって以降の長瀞さんは,初期から知っている身からすると,まぁ,別物だよね……とか,うざい人になってみようと思ったんだけれど,敬愛する天才声優・黒沢ともよ先生の演技が最高だったので,なんか,どうでもよくなった.

2019年2月7日木曜日

古典とか

古典を必修から外す(かもしれない)というニュース.

古典に限らず,教育内容について変更があるというのは,そう少ないことではない.例えば,僕の世代(いま,30 台半ば)は,高校数学から微分方程式がなくなった初期の世代だった(高校物理では暗黙の了解で使うのに,数学では触れられないという不思議).大学に入ってすぐの頃には,教養部の微積担当の先生にしつこいくらい「君たちは意味もなく微分方程式に触れることができなかった世代」と言われたものだ.

教育において,必修内容を削除するということは,多くの子供から機会や可能性を奪うということであると認識しなければならない.

与えられた知識が無駄になってしまうのは,個人の選択や個人の能力の問題だが,「無駄になりそうだから」と父権者が取り上げてしまうのには,本当に慎重にならなければならない.(例えば,僕は与えられた世界史の知識の大部分を無駄にしているが,不要だったと思ったことはない)

で,冒頭の問題.

古典を取り上げるのは,本当に「春はあげぽよ」みたいなギャグで笑う機会を取り上げるだけですむことなのでしょうか?

2019年1月30日水曜日

抽象的な話2

今度は,特定しないためにボカす.

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あるネット上のある科学系の学識ぶったクラスタで,ちょっとしたネタが沸いているのを見た.そのネタが明らかにその学問の基本中の基本を理解していない内容だったにも関わらず,それについて何故かちゃんと議論が成立していた(本当のはじめから流れを見ていたわけではないので,くそネタを弄って議論風に遊んでいたのかもしれないけれど).

そんな不思議な光景を見たので,話の展開をちょっとだけ遡ってみたところ,そのクラスタのオピニオンリーダー的な人が,議論をミスリード(というのは言葉が違うんだけれど.何しろ根本的に間違っているから)していたことがわかった.

それがいいとか悪いとかいう話ではなくて,そのクラスタにいる人たちは,その場に書き込んでいるのに使っている箱を使えば,いま目の前で展開されている言葉のやり取りが根本的に間違っているということが簡単に調べられるということに気付いていないということが恐怖だった.つまり,そのオピニオンリーダーの知識や各議論参加者のその時点で保有している知識を上限にした議論しかなし得ていなかったということで,かつ,それが学問系クラスタやら議論を名乗っていて,それがおかしいと思っていないということだ(具体を知っているが故に抽象的に書くのが難しい.要は,バカがもっとバカととんでも理論の構築をしようとしているところを目撃したという話).

何度も書くけれど,その間違いは,その分野に明るければすぐにわかるものだし,その時点では,不勉強ゆえ知らなかったとしても,ググればすぐわかるレベルのもの(教科書を読む,とかじゃなくて,ググればわかることを確認した).

基本的に,議論の途中でわからないことが出てきたら,相手が目の前にいてもググって調べたり(または相手に聞いたり),自分が弱い部分についての話だったら,教科書なり論文なりを手元に置いて,相手と確認しながら話したり,議論の立脚点について誤謬がないかどうかを確認・共有したりというのが当たり前な世界でしか生きてきたことがなかったので,かなりの衝撃だった.とんでも理論とか陰謀論とかができる仕組みを観察できたというか…….

2019年1月27日日曜日

個人的なメモ(カテゴリ新設)

個人的なメモ.

いままで,レギュラーでは万年筆は一本しか使っていなかったから,あんまり気にしていなかったけれど,意外とペンと紙の相性ってあるんだね,と気付いたので,個人的な記録として.

(たぶんに,個人の趣味の問題に帰するので,あくまで個人的なメモとして)

・2 年くらいレギュラーのノートとして使っているカキモリで自作したノートの紙はバンクペーパーだけれど,これはどの万年筆とも相性がいいし,インクの吸いや発色もまぁまぁ.裏抜けもしない.

・この間,同じくカキモリで作ったノートはフールスにしたんだけれど,(あくまで個人的な好みの問題として)少しペン先が滑りすぎて書きづらい.インクに対する相性は悪くない.

・普段使いの手持ちメモ帳で Rollbahn を持ち歩いているんだけれど,これがびっくりするほど万年筆と相性がいい.いままで,あまり万年筆で書くことなかったんだけれど,万年筆とセットで使いたいくらい.フィールドで乱暴に扱うから,まぁ,そんな機会は訪れないけれど.

・トモエリバーはペラすぎてめくりづらいから,昔から好きではない.書きやすいのは認めるけれど,紙は厚い方が好きなの.

・新たに,最近(?),話題の MD ノートを買って試してみたんだけれど,これが,まぁ,最悪な書き味.普段,雑多な作業(実験)記録に使っているコクヨのスタンダードな中性紙以下.何より,インク乗りがめちゃくちゃ悪い.どの万年筆でも,ペン先がぶっ壊れたのかというくらいの頻度でインク抜けする.突っ掛かりも多い.調子がいいときのサリサリする書き音は気持ちいいんだけれど,すぐにインク抜けを起こすから,書いていてすごいイライラする.

・Rhodia は可もなく不可もなく.ただ,少し滲む気がする.まぁ,Rhodia は,一時期,野帳をこれに統一しようと思ったけれど,あまりしっくりこなくて,いまでは,そのときに買った数冊がほとんどデッドストック化しているだけで,ほとんど使っていないので,どうでもいい.

結論として,昔から定評のある紙が書きやすいということで,最近話題のものって,所詮,その程度のものよね,と.

とりあえず,MD ノートに好意的レビューをしている人間はメーカーの回し者なので,絶対に信用しない方がいいということがわかった.ここまでクソな紙質なのは正直びっくりした.

手書きの文章とワープロ打ちの文章

オカルト的な話であることは否定しない.

……が,手書きで書かれる文章とワープロ打ちで書かれた文章には違いがあると思う.これは,どちらが優れているとか,そういう話ではなくて,例えば,喋り言葉と書き言葉に違いがあるようなものだ.

手書きの言葉と,ワープロ打ちの言葉の違いは確実に存在していると思うけれど,この違いが万人に共通する”かたち”で現れるわけではなくて,個人の資質によって規制される部分が大きいというところが,この論をオカルト化していると思う.

たぶん,「直接,漢字を書く」ことと「変換する」こと,思考の速度と文章を「書く速度」と「打つ速度」の差異,修正の簡易さの問題など,明らかに自分の生理的な呼吸との間に違う行為が挟まれているので,差が生まれる理由は,存在している気がする.あと,漢字を勝手に変換してくれるから,ワープロ打ちの方が難しい言葉を使いがちになるよね(自分だけの症状かもしれないけれど).

例えば,手書きで書いた草稿をワープロに打ちなおすとき,それを強く感じる.私の場合は,ワープロ打ちだと一文が長くなる傾向が著しい.手書きだと,長い文章の整合性が取れないし,たぶん,書いているうちに思考が息切れする.

そう考えると,手書き時代に長いのに美しい文章を書いていた堀辰雄ってすげえな.

年齢に自分を合わせていくスタイル

最近,思うことの一つに,自分もそろそろ,最年少中年としての自覚を持つべきではないかということがある.

明確に,身体や脳は,老化をはじめて衰えてきているのに,いつまでも自分が若いつもりで行動し続けるのは,様々なバランスを崩すに違いない.特に,身体や脳を過信して,ワークライフバランスを崩すのが,この時期に老化に寄り添えないことが原因なのではないかと思っている.

逆に,自分の老化に寄り添えない生き方は,自分が若かった頃,心の底からウザくて嫌いだった「自分は若者の心をわかっている」おじさんでしかない.あれは,考えが古くて頭が硬い頑固親父よりも気持ちが悪い,うざい,老害そのものだった.ああはなりたくない.

そんなわけで,最近は,自分が若い頃,思い描いていた 35 歳なりのスタイルが似合う人間になりたいと思っている.残念ながら,一番のイメージである「毎日,背広を着て満員電車に乗る」人にはなれなかったけれど,格好だけでも目指したいと.(たぶん,急に万年筆を増やしたのは,この辺の意識も裏にある

そんな私が,いま気にしているのが,センスのいい扇子とセカンドバッグ(クラッチバッグ)と普段使いのジャケット.特に,来夏までに「いい扇子」を入手したいと思っている.

2019年1月20日日曜日

センター試験といえば,みたいなのも書いておく?

……とはいえ,結構,過去にもこういう振り返りはしている気がするし,その時より,当時の記憶は不鮮明になっているから,今更な気はする.

……と思って,ブログとかを振り返ってみたけれど,意外とセンター試験だけの思い出って書いてなかった(むしろ,二次試験の時期に思い出話書いている率が高い).

センター試験は,千葉大の理学部棟で受けたんじゃなかったかと思うんだけれど,自分の前後,しばらく,自分と同じ名字の人がずらっと並んでいて,「ああ,あんまり自覚なかったけれど,自分の名字ってやっぱり多かったんだなぁ」とぼんやり思ったのを覚えている(同級生の同性の人との間(名前の頭文字「け」と「た」の間)に何人も人がいたので,それなりに多かったのだろう).一応,全国順位で 10 位前後(調査によってブレがある)なので.

まぁ,よく聞く「高橋部屋」とか「佐藤部屋」ほどではないけれど.ちょっと,衝撃的だった.

ちなみに,私は,下の名前も珍しくないので,漢字まで含めた同姓同名が結構います.一時期,同じ研究室に名字かぶりの人と名前かぶりの人がそれぞれいたくらいだしね.

……というか,これ,センター試験の思い出話から随分とずれてるね.というか,本当に記憶がない.

センター試験の日,らしい

というわけで,自分がセンター試験を受けた頃のことを,例のごとく,辿ってみようと思ったんだけれど,もう 17 年も前の話になるのね.

17 年前というと,いま,35 歳の私からすると,だいたい,人生の半分,折り返し地点になるわけだ.そういう意味では,それ以前の自分と,それ以降の自分は結構変わった生き方をしてきたような気がする.少なくとも,18 歳,高校 3 年の頃の自分は,自分が地質学者になるなんてこれっぽっちも考えていなかった.というか,地質学なんて学問は認識していなかった気がする.もっというと,化学とか物理とか,清廉な化学こそが美しいと思っていて,地質学みたいな雑で不細工なものに美学を見出していなかったというか(まぁ,この辺は長くなるので割愛).

そもそも,35 歳まで生きているつもりなんかなかったよね.そういう意味で,いま現在は,晩年,余生を生きているようなもんだし,実際,そう思っているから,その辺の,自分の生き方の芯の部分は変わっていないとも言えるのではないだろうか.

2019年1月14日月曜日

最近気づいたこと

メモは便利.

自慢ではないけれど昔から記憶力はいいので,人から言われたこととかあんまり忘れることがなかったので,メモとか真面目にとっていなかったし,仮にとっていたとしても,見返すことはほぼなかった(機械の操作ノウハウとか,実験の手法とか,重要な案件は別ね).

ところが,30 も過ぎてくると,自慢の(?)記憶力も寄る年波に勝てず……というか,思い出す体力がなくなってきたというか,見返す前提のちゃんとしたメモをするようになったし,見返すことも増えた.そういうわけで,便利さを痛感している.

2018年11月28日水曜日

長さ

最近,時々,手塚漫画を読み直すことがある.そのたびに思うのが,とにかく「短い!」ということ.

いい悪いの話ではなくて,とにかく,手塚漫画って短い.後期,「ひだまりの樹」あたりは,わりとだらーんと間延びしている感はあるけれど,それでも,あれ KC サイズの 10 巻くらいでしょ?

「火の鳥」なんて,改めて読み返すと,各編が短すぎてビックリする.本当に短い.頭の中に残っているかつての記憶の 1/5〜1/10 くらいのイメージ.昔,浦沢直樹がアトムの中編を,脳内で勝手に付け足していたストーリーを交える形でリメイクしたりしていたけれど,そんな感覚に近いかもしれない.

それに比べて,今の漫画のなんと長いことか.長いことがすなわち悪いという話ではないんだけれど,「本当にその長さは必要なのかい?」とは思う.あげつらうわけではないけれど,20 年近く連載している少年漫画,というかぼかさず書くけど,ONE PIECE なんて,その長さに意味あるのと言いたくなる(誰が継続して読むのよ,と).

長編を書くより中編,中編を書くより短編を書くのが難しい,とはよく聞く言説だけれど,結局のところ,エッセンスを編集するという能力が現代人から欠落してきているんじゃないのか,と思う.だだらに続くアニメやドラマと,2 時間の映画の対比とか,近似できる気がする.

たぶん,その背景に,記録媒体の変化とか,視聴環境の変化とか,諸々絡んでいるだろうし,これに絡んで(書きながら),いわゆる「日常系」とか「美少女動物園」的なアニメとかに関する論も思いついてしまったのだけれど(長くだらだら書いてもいいという感覚と,永続的に続いて欲しいという感覚の相関とか諸々),どんどん長くなるので,この辺は,いずれどこかに書くかも.

思考のクリップとして,とりあえず,ここに書き散らしておく.

2018年11月3日土曜日

教育に関してよくみる言説

特定の学術分野に関して,一般人がトンチンカンな反応をしたりするのを見た際,「◯◯について学校(特に義務教育)できちんと教えるべきだ!」と鼻息を荒くしている人をよくみる.もちろん,社会で共通認識として通用するべき常識的な教養の範囲(=義務教育が担保すべきレベル)は,高く広い方がいいのは当然なんだけれど,指導内容が無限に増やせるわけではないので,そりゃ,限界があるだろーよ,と思う.

そもそも,自称:ふつーの大人の大部分は,義務教育できちんと学習していることでも,ろくに覚えていないので,その「◯◯」についてしっかり義務教育(〜中等教育)に取り込んだとしても,基本的には現状と大して変わらないだろうと断言できる(一般向けの教養系クイズ番組の問題の大部分は義務養育レベルだけれど,それに悩んだりして楽しむ視聴者が大部分なわけで).

さらにいうと,その「◯◯」が義務教育〜中等教育の範囲内で,普通に教えられている内容であることが大半だったりする(ちなみに,高校進学率(=中等教育修了者)は 1990 年代以降,95 % 以上だそうな).それでも,覚えていない人がいて,そういう人がトンチンカンなことをいうというのが現実なのだ.

人間が総じて物忘れの激しいバカであるという巨大な事実の前では,諦観しかない(ので,私は熱くなれない).

まぁ,その程度に,人類みんなバカと思って暮らしている方が平和で,教育とかについても,より建設的な議論ができるんじゃないかと思うんだけれど,どうですかね?