2016年3月30日水曜日

責任の所在

某中学生の監禁事件のニュースを見ていて,容疑者の通っていた大学が謝罪をしたという記事を見かけたときに思い出した,某先生に聞いた昔話.

某大学でちょっとした学生の不祥事があって,それに関する調査やら謝罪やらが一段落ついたころに,その大学の,よりによって某先生がいた学部の学生が殺人事件を起こしたことがあったそう.そのとき,その先生は学務を担当していたそうで,直前の不祥事の対応のこともあって,ニュースをみてすぐ顔面蒼白で学部長に相談に行ったら,「人を殺すことについての教育に大学の責任はない」と一言言われて,以降,落ち着いて粛々と除籍の手続きを行ったとのこと.

まぁ,そりゃそうだよね,という話なんだけれど,そういう意味で,千葉大には,未成年を監禁するということについての教育の責任なんてないと思うので,謝罪なんてする必要ないよね,ということ.

ただし,卒業取り消しを批判している人が一定数いるようだけれど(学業を修めた事実と在学中の犯罪は関係ないという理屈にもならない妄言),この事件の発覚が一ヶ月前だったら,当然,除籍なわけで(これを批判する人はいないはず),在学中の犯罪が卒業の数日後に発覚した以上,卒業取り消しのうえ除籍という処置は当然だと思います.

春の気配

気温が緩み,雪が溶け,窪んだ草地にやたらと澄んだ水たまりができ,積まれた雪が溶けて冬の間に累積したチリが濃集して黒ずみ,また,溶けた雪の下から去年の枯葉が舞い,冷凍保存されていた犬のフンなども顔を出す.街の中を歩いていると,大型の家具が粗大ゴミとして並んでいる一方で,まだ,街に慣れていない様子の若者が右往左往している.

そんな,春の気配.

2016年3月26日土曜日

心の底からつまらない

AI の書いた小説が星新一賞の一次選考を通過した話とか,Microsoft の AI が独裁者の礼賛をはじめたり暴言を吐き始めたりしたから運用を停止したという話を聞いて,心の底からつまらないと思った.

人工知能を作る上での研究者側の心意気の問題なんだろうけれど,人間が考えるような人間の価値観で判断できる人間らしいものを作って,何が楽しいのか?

せっかく,人工知能を作るのに,人間の出す結論と似たり寄ったりになるようにチューニングをしたんじゃ,ただの計算の早い人間以外の何物でもなくて,なんの面白みもない.

AI 小説の例で言えば,人間の審査員が「理解出来る」ような文章を吐き出すだけじゃ,そもそも,人工知能に小説を書かせる意味がない.むしろ,何が何だかわからない,わけのわからないけれど,その人工知能のなかでだけはロジックが完結しているような,めちゃくちゃなものを吐き出せるということが重要なんじゃないの?

(※AI 小説の件について,各プロジェクトによって作業内容は違えど大部分が人間による仕事であるという知識は持っていますので,ツッコミはいりません)

2016年3月13日日曜日

電子楽器の鎮魂歌は至極原始的な物理的破壊にあって

キース・エマーソンが一発の銃弾でぶっ壊れてしまった.確定した情報ではないらしいけれど,ほぼ,自殺ということらしい.なんてことだ.なんてことだ…….

電子鍵盤プレーヤーのなかでは一番好きな人だった.本当に悲しい.もう,語る言葉が出てこない.悲しい.

2016年3月11日金曜日

人間の感覚(笑)

囲碁でトッププロがコンピューターに負けたという話.

囲碁は,ゲームのかなり早い段階で人間の脳でロジカルに考えられる範囲を超えて,感覚の世界に入るからこそ,それは人間にしか理解できない云々という話を聞いたことがある.この話を聞いて,なんというか,人間の感覚というものをまるで天啓か何かのように考えているようで,「お前は何を言っているんだ?」としか思えなかったし,脳という貧弱な計算機の限界を「感覚」なんて言葉でごまかしていることが,結局,考えの及ぶ範囲の定石と棋譜のうえで有利になった経験則の積み重ねに過ぎず,計算量がものすごい小さい,むしろ,生物の脳の貧弱さの象徴じゃないかと思っていた(多くの人は,これこそが人間の脳の優位性だとか思っていたようだけれど).

今回,コンピュータの打った棋譜が,人間のトッププロに理解できない場面が多々あった上で,かつ,人間が完敗したという事実は,感覚というのが過去の棋譜の上で明文化されていない経験則の積み重ねに過ぎないということを喝破したので非常に痛快だった.これは,素晴らしい成果だと思う.

今回のコンピュータの思考プログラムは,決して,最適解だとは思わないが(ニュースを読みかじっただけなので,どういうロジックで思考の分岐の枝を端折ったのかもよくわかっていないレベルです),特定のロジックに則って,(もしかしたらファジーな部分もあるのかもしれないけれど)計算が追尾可能な状態で生み出された,「人間に理解できない」手が存在するということが非常に面白い.

むかし,分類ということに関して似たようなことを考えたことがあって,三次元形態モデルを大量にぶち込んだうえで,非常に単純な志向性をもたせた分類プログラムを組んだら,どのくらい人間の感覚に基づく分類と乖離するか,という思考実験をしたことがあった.このとき,コンピュータの吐き出した分類が,人間が「感覚」で作った自然分類とどう変わるかというところに,分類 "学" の先が見えてくるんじゃないかという話とかいろいろ考えていた(し,今も考えている)んだけれど,まぁ,それはまた別の話.長くなるし.

愚痴ぐち

異動やだー.マネジメントとかしたくなーい.別に,偉くなるためのラインとか乗りたくなーい.そもそも,偉くなったら自由が利かなくなるから偉くなりたくなーい.研究だけしていたーい.

……という愚痴をほとんど誰も見ていないけれど,誰でも見られる場所に吐いておく.2 年間(労使協定)の人身御供だ…….基本的にそういうの向いてないと思うんだけどな……

2016年3月10日木曜日

単純な話

なんかヒット作が出ると,分析と称したまわりっくどい文章が出回るのが,最近のサブカル界隈だけれど,最近,その層はおそ松さんにご熱心な模様.

まぁ,最近,大ヒットといえるようなアニメがない中で,頭一つ抜けている感がある.年寄りの僕から見ると,少し前の大ヒットで思いつくのは「SHIROBAKO」あたりだけれど,これがちょうど一年前の作品だ.毎年,4 クール,200 本以上のアニメが作られる中で,記憶に残るアニメがこれだけ少ないと,まぁ,それに群がる人も多かろうと思う.

で,まぁ,おそ松さん.

個人的には,別段,原作・過去のアニメに思い入れなんぞはないし,下らなくて,肩の力を抜いて見られて,適度に笑えるので,毎週,楽しみにしている感じだけれど,これが受けている理由に関して,的を得た論評を見たことがない.

たとえ,低レベルで,シモが多くて,お子様向けとはいっても,単純に「笑える」レベルのギャグを提供できているコンテンツであるという点を無視して,どうでもいい要素にばっかり注目する論評が多いのかが疑問だ.ギャグアニメって下らなかろうが,下劣だろうが,シモだろうが,なんだろうが,大勢(しかも,視聴者って子供が多いの)を笑わせれば勝ちだってことなのさ(いろいろ技巧をつくしたお笑いって笑う人は笑わせられても,笑わせる人数は稼げないのよ).それに加えて,基本的に,声優の質も高いし,絵も綺麗だし,少し褪せた雰囲気の色使いも悪くないし,細部まで絵・デザインのノリに統一感があって,音楽はセンスがいい,という枝葉の大事なところは締めているアニメな印象.

まぁ,ここまで丁寧に作ってあれば,そりゃ,売れるよ,という単純な話.

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これが「出来ている!」って言い張っていたのに売れなかった多数のアニメは,大概,製作に大きな権力を振るえる人の独り善がりになっている例が多いよね.どの作品とか,そういうことは長くなるから言わないけれど.

2016年3月4日金曜日

個別事例の不毛

どこかには不幸な人がいて,全員が一定の幸福を享受できないことは,ユートピアから遠く,社会全体にとっても不幸であることは,一応,前提として認めよう,という前書きを置いてから.

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特定断面を切り取った個別事例が不幸であったとしても,残念ながら,そのことをもって,社会的・政治的な問題にすることはできないことがわからない人が多いらしい.そして,それは,その特定断面・個別事例の数をたくさん集めたとしても,少なくとも国民の過半数とか集まらない限り,実は,そんなに影響力としては変わらない(し,そんな大規模な不幸はとっくに改善されている).

そういう点で,特定断面の個別事例は不毛.

そういう事例をたくさんあげることに満足する人は,全くもって,政治に参加していないのと一緒で,そもそも,政治というものに対する知識に欠けすぎている.ハッキリ言ってお花畑だ.

とりあえず,そこにある特定断面・個別事例の不幸を政治的な問題にしたいのであれば,(叶うかどうかはともかくとして)取るべき手続きについて学んでから行動を始めましょう.その結果が今の,こんなに幸福な社会なのだから.少なくともそれは,匿名の SNS で,個別事例を叫ぶことでも不幸自慢をすることでもないはずです.

まぁ,なんで,全ての人が絶対幸福に至れないのかわからない人は(そんなお花畑の人が本当にいるのかどうかはともかく),功利主義哲学とか学んでみるといいかな.ベンサムからでいいよ.

社会主義者・共産主義者は,帰って,どうぞ.

教育がいかに無駄かという話……かな?

別に教育を否定したいわけではなく,理解力とか記憶力とかそういった問題の話.

なにかの知識不足とか概念(用語)の誤用とかの例があると,識者から「こういった常識になるべき内容は義務教育(または高校)でしっかりと教え込むべきだよね」といった反応が上がることが多いけれど,そういう内容は中学〜高校でしっかり教えられている内容であることがほとんどなのだ.

問題は,中学(または高校)における教育にあるのではなく,定期試験とか受験とか,知識が必要な時期が過ぎるとスッポリと記憶を欠落させてしまうポンコツな脳みそのほう.そうさせない教育をしろ,というかもしれないけれど,それはあまりに無理ムリかたつむりなので,努力目標程度にすべき.

巷のクイズ番組やなんかがほとんど義務教育レベルの問題で構成されていることを考えれば,義務教育程度の内容が一般人の頭から適度に欠落しているバラエティーに丁度いいレベルだということくらいわかりそうなものだけれど,世の中には一度しっかり習ったことは生涯忘れないと思い込んでいる優秀な人がいっぱいいるようで…….

大体の人の脳はポンコツで,自分が興味のない分野における義務教育の必須記憶項目を全部しっかり覚えられている人なんてほぼいません.大なり小なり抜けていくのが当然のことです.たとえば,自分の脳に自信があり,かつ,普段料理をしない人って,義務教育の家庭科で習ったはずの食材ごとの切り方の種類や出汁の取り方を正確に覚えていますか?理系の人は,義務教育〜高校程度の社会科目で習った内容,しっかり全部覚えていますか?ビルトインスタビライザーとか急に言われて説明できますか?

そういう「人間っておバカさん」という,重大な事実を忘れてしまうのは,義務教育の内容を忘れてしまうより,相当に害悪だと思うのです.