実は先日,仕事がらみでテレビカメラに写ったのだけれど,たぶん,オタク特有の早口でしゃべる 100 kg 超のデブが写っている映像なので,そんな現実は直視せずに生きていたい私は,その映像を見ることはないでしょう(そもそもテレビ持っていない).
なお,すでに放映は終了しているので,たまたま見た人以外は,見ることはないはず.
しかし,テレビに映る仕事の人って,常に自分(の仕事)を客観視しながら生きているって考えると「すげーな」と思う.
実は先日,仕事がらみでテレビカメラに写ったのだけれど,たぶん,オタク特有の早口でしゃべる 100 kg 超のデブが写っている映像なので,そんな現実は直視せずに生きていたい私は,その映像を見ることはないでしょう(そもそもテレビ持っていない).
なお,すでに放映は終了しているので,たまたま見た人以外は,見ることはないはず.
しかし,テレビに映る仕事の人って,常に自分(の仕事)を客観視しながら生きているって考えると「すげーな」と思う.
結末が失われた物語は,そのままが美しいのか,不完全な補完が必要なのか,と問われたら,私は,圧倒的に前者を支持する.
「ベルセルク」の連載再開について.
まあ,失われてしまった作者の構想ノートをマンガ仕立てにして発表する,ということでしかないので,それについて,是非もなにもない.ただ,それがどんなかたちになったとしても,失われてしまったモノを強調するだけでしかないのは事実で,だからこそ,やらない方が良いんじゃないの,と思っている.
みんなが見たかったのは,三浦建太郎先生が画き切った「ベルセルク」の完結であって,そうではない形で示されたプロットの確認がしたいわけではないのでは?
……まぁ,出たら読むけれど……と書きかけたけれど,やっぱり,読まない気がする.
10数年前から観測されているけれど,ここ数年に顕著になった事例のひとつに「ファスト映画(※)」がある.映像の n 倍速再生とかも,この仲間かな.
※大前提である著作権侵害とかの部分は,今回の話と関係ないので,とりあえず置いておく.
私は,バックボーンとして元映画オタで,映像作品が大好きなので,そもそも,単にあらすじだけを追いかけるようなコンテンツ消費とか,n 倍速して「作られた時間」を無視するような視聴姿勢などを理解できないし,いかなる理由でも賛同するつもりは一切ないです.別に,そういう人と喧嘩する気はないけれど,根本的な思想や宗教が違う人なんだと思います.
ただ,よく考えると,近年になって動画編集技術が簡易化したり,機器に n 倍速再生機能が標準化したことで,いわば「要約」「時短」界の最後の牙城だった映像コンテンツが要約できるようになってきたので,こういう議論が沸き上がっているだけだよな,と最近になって気付きました.
昔から,相似な事象はいっぱいあって,はるか昔から長編小説のダイジェスト版みたいなものはあったし,様々なジャンルで「n 分で完全理解」みたいなものはベストセラーになってきたわけです.もう少し広げると,例えば,音楽を聴いているときに主旋律やボーカルの歌だけを聴く人とか,絵を眺めているときに背景知識などに一切興味を持たずに絵面だけを眺めて通過してしまう人なども,対象とする媒体は違っても,全体を構成するもののなかで目立つものを消費して終わるという意味で,同じ種類の人で,それらは古くからいるし,誰もがなにがしかのジャンルにはそういう態度を取っている面があるのだなと気付きました.だって,例えば,ほとんどの人は,その辺に落ちている適当な石ころを眺めて楽しむこととかできないでしょ?(私は地質の知識があるので,かなり楽しめる)
まぁ,そういった触り方しかする気がないジャンルに,わざわざ手を出す理由も分からないし,あらゆるものに対して触ることくらいしかしない人は,最早,理解の外だけど.
世代的にはまったく「ウルトラマン」直撃世代ではないんですけれど,子供の頃,再放送でみていたウルトラマンが大好きだった人です.ほかの特撮に,さほど思い入れはなかったし,一部を除いて(※),覚えてもいないんだけれど,ウルトラマンだけは好きだったんです.不思議.
(※仮面ライダーでいえばBlack~RX 世代,リアルタイムにウルトラシリーズはない時代なので,特撮的には谷間世代)
で,まぁ,「シン・ウルトラマン」をみてきたわけです.
……なんだろう.知ってはいたんですが,この映画,なんかダメでした.どこがどうダメかとか,具体的にいいつのることはできるんだけれど,そういうことをする気も起きないくらいダメ.たぶんだけれど,制作陣と私の間のウルトラマンとか科特隊とか怪獣とかに感じていた「カッコよさ」が根本的にズレているんだろうな,という感じ.
私は子供時代に「ウルトラマン」を子供として楽しんでいたきりだったのに対して(※※),一定程度に成熟した後にも「ウルトラマン」を繰り返してみていた特撮オタクとの差なのかな,と.
(※※子供時代とはいえ,何度も録画をみていたし,記憶力がいい子だったので,いまでもストーリーの詳細を思い出せる程度には覚えている)
ちなみに,同行者が,「ウルトラマン」を全く通ったことがない人だったけれど,私みたいに「ダメ」「肌に合わない」ってほどの拒否感はなさそうだったけれど,「普通」「特段,面白いと思わない」くらいの感じでした.なお,帰り道で映画のネタ元というか,原作の話をしたら,「旧作をみたくなった」とのことなので,旧作のプロモーションムービーとしては意味があったのかもしれませんね.
Pelikan Souverän M400 青軸(M)
Pilot ELABO 樹脂軸黒(SF)
Salor Sapporo(Professional Gear Slim)白軸,金装飾,黒首(M)※海外モデル
Salor Professional Gear カクテルシリーズ テキーラサンライズ(M)
Pelikan Souverän M805 Demonstrator (B)
Pelikan Souverän M300 緑軸(M)
Pelikan Classic M205 Olivine (M)
Pilot Custom742 仏壇(FA)
Aurora Trilobiti Ciocolata (M)
Namiki (Pilot) Metropolitan Retro-Pop Orange (M) ※海外モデル
Namiki (Pilot) Metropolitan Retro-Pop Turquoise Barrel (M) ※海外モデル
もうそろそろ,話題に上がることがなくなってきたし,逆に,アニメの 2 期が始まって話題が再燃する前の時期だし,いいタイミングかなと思って「鬼滅の刃」を読みました.読む前から,想定していたのは,「たぶん,これだけ人気になるんだから,普通に面白いんだろうけれど,(読書体験として)面白いだけなんだろうな」という感想になるであろうことで,そもそも,「少年漫画的なもの」が肌に合わない自分には向かないマンガであることは自覚がありました.
で,読んでみた.(※アニメはみていない)
読語の感想としては,事前に想定していた通りで,「面白いマンガではあった(=読むのに要したコスト分,面白かった)」という以上のものはなかったのですが,マンガ自体の面白さと別なところで,「物語」の無さに驚きました(※批判ではないです).
まず,「鬼滅の刃」自体が,23 巻もあるわけだけれど,その全体でプロットが 5 つくらいしかないうえに,それが一本の線のうえに並んでいるだけなことが,最も衝撃的でした.元々,少年漫画的なものに馴染まないうえに,年齢的にも,最早,最近のマンガの潮流においていかれている自覚はあるのですが,ここまで「物語」がアッサリしたストーリーマンガというものを経験したことがなかったので驚きました.たとえるなら,(今となっては)初期の,面白かった頃の「One Piece」を何倍も薄めたようなアッサリさ(※どちらのマンガについても批判ではないです).
※例えば,「○○の呼吸 ○の型」とか,読む前は,「修行をしてどうこう」とか「キャラに見合った形質が現れる(ex. ハンタの念)」みたいなものかと思っていたけれど,自分がなにか読み飛ばしたのかと思うくらい唐突に,なんの事前情報もなく,いきなり技を出してきて驚きました.
※もう一例.読む前は,恋柱のおっぱいの子とか花のポニテの子とか,すごい主要キャラなのかと思っていたら,ただのちょい役のサブキャラ程度しか露出がなく,アッサリとしか書かれていないのも驚きました.猪と雷との絡みも,ほとんど描かれていないのに,いつの間にか盟友みたいになっている,とかもそういう例.
このマンガの持つ,こういったアッサリとした「質感」は,個人的には,斬新で,面白い(interesting のほう)と思いました.
もうひとつは,そこまで斬新な手法というわけではないですが,キャラクターの造形について,大して深掘りはしないけれど,わかりやすい程度に類型化した「物語」を付与するやり方は,このマンガの大きい特徴かなと感じました.また,先述した物語のアッサリとした「質感」と「キャラ造形」に共通するものとして,「少年マンガのお約束」の多用によって故意に物語を省略する手法も目立ちました.「お約束」の共有によって,書かない部分は書かない(例:一回,共闘のシーンを書いたから,もうこいつらは盟友!みたいな).
何が言いたいかというと,二次創作や妄想のための部品の展示市のような作品だなということです.
そういう目で見ると,東浩紀が「動物化」のころに「エヴァ」を評して,「物語を薄くすることで読者の妄想の材料(情報)を大量に集めた作品で,これらの材料をもとに読者が妄想を膨らませたから成功した(かなり意訳)」と書いていたような知見に近いかもしれないです.作品を読んで,読み手側が妄想し,作品に反復することで,書かれているテキストと絵以上の楽しみ方ができるという点は共通していそうです.ただ,「鬼滅」については,明らかにエヴァのような衒学的な情報過多状態ではなく,非常にアッサリとした「質感」の物語に,妄想するための余地や空間をたっぷりとっている作りを感じます.そういう点で,「鬼滅」は,「日常系」と言われる一群に近い,その進化形なのかもしれません(注).
注:「エヴァ」が物語の喪失という表象とすると,その更なる発展が「日常系」に見いだせて,薄いとはいえあった「物語」という土台すら取り去られている世界観が現れる.そういった「物語の喪失」の極地を越えて,もう一度,「物語」を薄く再導入したようなイメージ.(「日常系」考は,昔どっかで書いた気がするので,ここでは書かない)
10年くらい前から,マンガやアニメの作り手が,マンガやアニメだけを見て育ってしまった論というのが流行りだけれど,「鬼滅」の作者が,そういう出自だとすると,このマンガの持つ「質感」が,そういった世代の作り出した,ひとつの結論なのかもしれません.
あとは蛇足な余談ですが,多分だけれど,アニメは,こういう「余地の部分」を埋めるような描写がある「二次創作」的なものになっているのではないかと思いますが,それは,このマンガの「質感」を下げる作業だと思います(見ていないので,ただの想像).そういう意味では,アニメのほうは,ほぼ無価値かなと思います.世間の評価的には逆なんだろうけれど.