2016年4月24日日曜日

これは怒っていいと思う

どこかで「科学者が今回の地震についてわからないと発言していて,説明を放棄していたけれど,なんのために存在しているんだ.金返せ(要約)」というような発言を見かけた.そして,それが,大層支持を集めていた.

こういうことを考える人は,科学者が「すでに説明可能なわかっていること」を研究しているとでも思っているんだろうか?すでにわかっていることを説明するのが仕事な人だと思っているのだろうか?謎だ.そもそも,わかっていることを説明する人に莫大な研究費を与えるほうが無駄じゃないかw

科学者は,わからないことを研究するのが仕事だし,何にもわからないことから,ほんの少しだけわかったことを世界に還元するのが仕事だ.そこに科学者が存在しているということは,そのことについてほとんど何もわかっていないことを示す.そして,科学者は,世界のありとあらゆる事象に取り組んでいる.そもそも,世界はわからないことで満ちている.

少なくとも,地震について言えば,学問として地震学が成立して,せいぜい,100 年.その間に,科学者が知見を集めることができた地震が,この地球で起きうる様々な仕組みによる地震の何%なのかすら,我々は知り得ない.というか,完全に想定したメカニズム通りに起こった地震なんて,過去にあるのだろうか?

いまの学生

自分の母校(大学)の敷地内にえぐりこむような形で配置されている職場に通っていると,どうしても,自分の後輩にあたる子供達の様々な姿が目に入ってしまう.それは,楽しいことでもあり,懐かしさと郷愁で物悲しい気分になることでもある.僕は,年を取ってしまった……(といいつつ,基本的に 10 年以上,大学に所属していて,すぐに現職場 [not 大学] に入ったので高校卒業以来,大学から物理的に離れたことはないのだけれど).

先日,ふとしたことで,新入生向けの某大学(と伏せる意味があるとは思えないけれど)紹介パンフレットみたいなものを眺める機会があって,なんか,隔世を感じてしまった.

もちろん,校風とか伝統とか変わっていない部分はあるんだけれど,根本的なところで,僕らの頃と「大学生像」が大きく変わっているのを感じた.

僕らの大学生初年度の頃は,まだ,意識が高くて(系じゃないよ),それなりにリアルを充実させているような大学生というのが理想像として存在した気がする(今風に言えば,みんな意識が高いリア充に恥ずかしげもなくなりたがっていたということ.そして,彼女が欲しかったし,セックスがしたかった.それが恥ずかしいことではなかった).

級友と図書館で試験勉強するのとか(その時に頑張って女の子のグループを誘ったりして.特定の教科に強いやつとかがいるといい口実になったw),大学生になったからというきっかけで哲学書を持ち歩いたりとか,わからなくてもそういう本を乱読したりとか(そんな乱読が未だに教養として生きていたりする),ある日唐突に特定の学問にのめり込んで勉強しまくったり,いかにその学問が面白いか語りあったり,夜通し酒(もちろん,某大生なので SS)を飲んで(その頃はまだ飲んでた.その頃のやらかしのせいで今は一切飲まない.もちろん,元々,強くはなかったけれど)男友達と下らないエロ話から学問のこと,社会のことまで議論したりして朝を迎えてしまうとか,下らないことで殴り合いの喧嘩をしたのはいいけれど,数日経つとなんであんなにいがみあったのか忘れて,また仲直りの酒を飲んだりとか,バイトで金を稼いで友達とすすきのに繰り出したりだとか(色んな意味で),適度にサークルで遊んだりだとか,合コンに繰り出したりだとか,そういう姿が「大学生像」として確固なものだった.その一方で,サークルにのめり込んで落第したりとか,すごいマニアックなことに偏執的にハマってみたりだとか,ふらっと授業を抜け出して(そこまでは恥ずかしくて言えなかったけれど,結局のところ「自分探しの」)旅に出てみたりだとか,そういう大学生像もあったり.ともかく,そのころの僕らに共通していたのは,リアルにそこにいる・あること以外には大きな価値を感じないというのが大学生の基本的な価値観だったということだと思う(もちろん,今風のオタクとかアキバ文化というのは,僕くらいの世代が奔りではあって,そういう人たちもいたけれど,もっと謙虚だったというか,それはそれ,リアルはリアルと使い分けるのが最低限の礼儀だった気がする).

因みに,インターネットは,ちょうど,テキストサイト全盛期で(少し後にフラッシュ黄金時代),時々,話題になることはあったけれど,決して日常的話題のメインストリームじゃなかった.ただ,さるさる日記とか,日記系のサービスがあって,みんなそんなところで日記を書いたりとか,HTML 手打ちで個人サイトを持って,リンクし合うなんていう,今でいう SNS の手工業版みたいなことをやっていた.僕も HTML 手打ちの個人サイトとか持ってた.今も,その当時のものがネットの海のどこかに漂っているけれど.

そんなのも,もう,15 年くらい前の話だ…….

いいとか悪いとかではなく,最近の大学生像は,とにかく 2ch 的なものに代表されるインターネットの世界や SNS が練り上げてきた価値観が,すべての前提とされていて(僕の頃は 2ch なんてできたばっかりだった.SNS やブログに至っては存在すらしていなかった),オタク(と称するただのアニメ視聴者)とかぼっちとか,そういうものを肯定的に……というか,一定の地位を持ったキャラクターとして認識していたりして(この辺の感覚が,僕らの世代が感じるぼっち感とすごくかけ離れている.一定の地位があったら,ぼっちじゃないじゃん,とか),逆に,僕らの頃の理想像としてあった「リアルを充実させる」ことに憧れたり,そのために努力したりするのは格好悪いみたいな風潮があるみたいだ(意識高い系の揶揄とか.「系」だったら叩いていい,みたいな風潮も僕はそんなに好きではない).

もちろん,僕らの世代も,もっと上の世代から,学生の姿が変わった,という言われ方をしてきたし,変わることが悪いなんてことは絶対にないけれど,十数歳の年の差で,もう,価値観が相入れなくなってしまっているという事実が,自分の老いを認めるようで悲しいのだ.

なんか,書きながら,猛烈に大学の教養時代のことを思い出してしまって,異常に長くなってしまった.

2016年4月23日土曜日

巡って元に戻る

今回の熊本地震に際して,Ziploc でご飯が炊けるよという話が話題になった.その時点では,「( ´_ゝ`) フーン」と,なんの興味もなかったんだけれど,その後,Ziploc は公式で湯煎に使うなと言及されているというツッコミが入った段階で(しかも,Ziploc の替わりに使えるとしてもっと熱に脆弱なものを勧めるというオチもついている),非常時になんとかして米を炊くという発想の紹介に対してなに寝ぼけたこと言ってるんだろうと,一瞬,イラついてしまったが,冷静に考えて,湯煎に使っている火にかけられる鍋(容器)と米を炊く綺麗な水があるなら,そもそも,湯煎+Ziploc で米を炊く必要がないことに気付いた.

2016年4月19日火曜日

届かなくても

先の震災を経験したということだけを後ろ盾に言いたいことを言う.

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「災害時は平時じゃない」

残念ながら災害時は平時じゃない.巻き込まれた以上は,もう,覚悟を決めるしかない.正常化バイアスという言葉は聞いたことがあると思うけれど,自分がいま日常ではない空間にいるということを意識的に認識するだけでも,ある程度,精神的な安定は保てるはず.ほんの少しの心の余裕というか準備が,それなりに大きい判断の分かれ道になることもある.

「助けられすぎないでほしい」

これは,あくまでいろいろ(衣食住環境や体力など)余裕がある人に対しての話だけれど,自分で何かができる人は,何もかも助けられる完全なる被災者にならないようにしてほしい.余裕がある人が,少しだけ頑張ることで,幾らかの弱者は救われるはず.

ただし,絶対に無理はしないこと.少し頑張るだけでいい.


「SNS やインターネットの情報は,被災地では何の役にも立たない.というか,そもそもアクセスできない」

もちろん,SNS の効能をすべて否定するわけではないけれど,残念ながら,基本的には気を紛らわす以上の役目なんてなかった.

SNS にアクセスできる状態の人は,被災した全人口に対してかなり少ない.そして,膨大な情報の渦から,ただでさえ真偽のわからない情報が錯綜するインターネットの世界で,的確に正確な情報を見つけることができるほど余裕がある人は,もっとわずかだ.いないと言ってもいいかもしれない.

だから,はっきりという.例え,その時点で正確な情報を拡散しているつもりでも,被災地にとってはほとんど意味がない.そもそも,ドンピシャで価値がある情報なんて,そうそうなかった.

ただし,単純なコミュニケーションツールとして,心の支えのようなものにはなるから,被災した人が見ているつもりで書くならば,ただ穏やかな,日常的なつぶやきをしていてほしい.正直,目の前に現実があるときに,仮想のコミュニケーションツール上でも悲惨な現状なんて聞かされたくないものだ.

「感情はエネルギーを消耗する」

感情を抑えろというのは無茶な話だけれど,感情はエネルギーを消耗する.悲しみとか,そういう,抑えることができない感情はどうしようもないかもしれないけれど,非日常にいるという事実を自分で意識することで抑えられるような類の怒りとか,そういう不毛な感情は抑えたほうがいい.この辺ははじめの災害は平時じゃないというところとも一緒.

「連む人は考えよう」

非日常だからこそ冷徹に連む人を選ぼう.それ以上は言わないけれど,日常に戻ったときに人間関係が壊れたとしても,自分に害があると判断できる人とは絶対に一緒に行動しないことが吉.

逆に,協力できる人とは積極的に協力したほうがいい.一人でできないことのなかに,複数人なら対処できることはいっぱいある.

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自分の被災体験は,家が壊れたわけでも(家のなかも学校の居室もめちゃくちゃで,損害はそれなりに出たけれど),津波を被ったわけでもないけれど,インフラはボンベ配給式だったプロパンガス以外全滅(電気は 3 日目位で復旧した).近所には崩壊したマンション,家屋がいくつか(同一地域内にはアパートからの退去命令が出て避難所生活の後輩もいた),食料・水の供給は,補給所での配給も先が見えない状況(ただし,いろいろ手を尽くして自分用に一週間分くらい食材は確保できていた.水はなかったけれど),車は運良くガソリンを入れた直後で使える状態,という,他と比べるとイージーモードだったけれども,"被災地" がどういうところかが分かる程度の環境にいたから,まぁ,このくらい言ってもいいと思っている.

いま,なんの被害も受けていない人にできることは,被災地に金を送ることくらいなので,そのほかの余計なこと(ネット上のデマ退治だとか,前震・本震の定義問題だとか,政権批判だとか,野党批判だとか,地震の名称問題だとか,そういう,この災害に関わっているつもりになれるようなだけでなんの役にも立たない下らないこと)をする手を一旦止めて,金銭的な援助をしてほしいと思います.お金以外は,大量の食料や生理・医療用品を企業の物流レベルで用意できないのであれば,基本的に役に立たないのも忘れないでくださいね.

以上,取り急ぎ.

2016年4月13日水曜日

この支配からの卒業からの卒業

ニコニコ動画が高校を作ったとかなんとか.そして,そこに多数の若者が集ったそうな.

別に,それ自体はどうでもいいし,高校なんて自分には全く縁のない世界なので,そこに通う生徒も,作った人達も頑張ってくださいってだけの話なんだけれど,ニュースそのものに強烈な違和感がある.その高校のウリは自由であることだそうで,学生の個性を尊重して,学生のやりたいことをやりたいようにやってもらうことだそうな(普通じゃないこと云々は壮大なギャグだとして).まぁ,実際どうなるかは知らないけれど,言葉自体は魅力的なものだし,(既に大人になってしまった人間としては)若者の自己実現を応援してやりたいという気持ちも分からないわけではないのだ.

しかし,ひとつだけ気になるのが,通っている生徒は,「大人が用意した自由という名前の箱」に入ることに,抵抗とか違和感とかがないのかということだ.

いや,大人が用意した箱ということにだけ心理的な抵抗を感じて意味のない無駄な反発をするよりも,セッティングされた環境を享受して利用し尽くす生き方のほうがクレバーなのかもしれないけどさ.

ひとつだけ言えるのは,別にその高校に行くことが自由を保障するんじゃなくて,結局,自分が自分に対して自由かどうかが自分の人生に自由を感じられるかどうかの全てなのだということ.場や箱が重要ではないなんて,大人になった僕には言えないけれど,場や箱が如何に用意されていても,結局は,自己実現の問題なので,逆に,恵まれた環境を用意されているからこそ,自分を見失わずに生きられるかどうかが強く問われるんじゃないかと思ったり.

少なくとも僕は,やりたいことしかやらずに自由に生きてこれたけれど(自分の能力が足りなくて諦めたことは多少あるけれど),それは結局,僕にそれを許すだけの能力があったからだというだけのこと.環境や運が大事じゃないとは絶対に言えないけれど,そもそもの能力は前提なのだ.

まぁ,今の若者にとっての大人って敵や嫌悪すべき支配の象徴とかじゃないのかもしれないという事実に,おっさんは驚いてしまったよ,と要約できるだけのことなのかもしれない.そういう意味で,社会は多分,尾崎から卒業してしまったのだろう.というか,尾崎たちが大人になったというか.

2016年4月10日日曜日

誰にも理解されないようなことを敢えていう

某水平線英語教科書のエレン先生が,今風の可愛らしい絵柄だったせいで大人気になっているという記事を見た.まぁ,可愛らしい絵柄だとは思うし,こういう絵柄が教科書に採用されるようになったという,時代の変化を感じれば済む話なんだけれど,なんか違うよね,という感覚が拭えない.

可愛く描かれているものをみて可愛いと思うのは当たり前のことであって,それは,なんか,いわゆるキャラ萌えとは違うよね,ということ.むしろ,いわゆる,教科書系イラストの中にある妙な作家のフェチズムみたいなものを抽出して反応するっていうのが,大事なんじゃないのか,とかそんなことを思うのでした.

余談だけれど,昔の New Horizon にいた Sanae ってキャラに友人(男)が似ていて,そいつのあだ名が一時期,さなえになっていたなぁ,というどうでもいいことを思い出した.