2019年1月30日水曜日

抽象的な話2

今度は,特定しないためにボカす.

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あるネット上のある科学系の学識ぶったクラスタで,ちょっとしたネタが沸いているのを見た.そのネタが明らかにその学問の基本中の基本を理解していない内容だったにも関わらず,それについて何故かちゃんと議論が成立していた(本当のはじめから流れを見ていたわけではないので,くそネタを弄って議論風に遊んでいたのかもしれないけれど).

そんな不思議な光景を見たので,話の展開をちょっとだけ遡ってみたところ,そのクラスタのオピニオンリーダー的な人が,議論をミスリード(というのは言葉が違うんだけれど.何しろ根本的に間違っているから)していたことがわかった.

それがいいとか悪いとかいう話ではなくて,そのクラスタにいる人たちは,その場に書き込んでいるのに使っている箱を使えば,いま目の前で展開されている言葉のやり取りが根本的に間違っているということが簡単に調べられるということに気付いていないということが恐怖だった.つまり,そのオピニオンリーダーの知識や各議論参加者のその時点で保有している知識を上限にした議論しかなし得ていなかったということで,かつ,それが学問系クラスタやら議論を名乗っていて,それがおかしいと思っていないということだ(具体を知っているが故に抽象的に書くのが難しい.要は,バカがもっとバカととんでも理論の構築をしようとしているところを目撃したという話).

何度も書くけれど,その間違いは,その分野に明るければすぐにわかるものだし,その時点では,不勉強ゆえ知らなかったとしても,ググればすぐわかるレベルのもの(教科書を読む,とかじゃなくて,ググればわかることを確認した).

基本的に,議論の途中でわからないことが出てきたら,相手が目の前にいてもググって調べたり(または相手に聞いたり),自分が弱い部分についての話だったら,教科書なり論文なりを手元に置いて,相手と確認しながら話したり,議論の立脚点について誤謬がないかどうかを確認・共有したりというのが当たり前な世界でしか生きてきたことがなかったので,かなりの衝撃だった.とんでも理論とか陰謀論とかができる仕組みを観察できたというか…….

抽象的な話

とある海外企業が,日本国内で大金をつぎ込んで行うプロジェクトの話を聞いて(具体に意味がないのであえてぼかす),日本て,本当に貧しい国になったんだなと思った.

同分野の日本企業が,「リスクが〜」を繰り返して,ちょっとだけ手を出して,あっという間に逃げ出すというのを何度も見ていることもあって,特にそう思った.かつては,日本の商社が海外で逆のことをやっていた時代もあったんだよな,と.

金がないというのは,たぶん,(企業の)脳みそや判断力にも悪いことなんだろうな.

まさに貧すれば鈍する.

2019年1月27日日曜日

個人的なメモ(カテゴリ新設)

個人的なメモ.

いままで,レギュラーでは万年筆は一本しか使っていなかったから,あんまり気にしていなかったけれど,意外とペンと紙の相性ってあるんだね,と気付いたので,個人的な記録として.

(たぶんに,個人の趣味の問題に帰するので,あくまで個人的なメモとして)

・2 年くらいレギュラーのノートとして使っているカキモリで自作したノートの紙はバンクペーパーだけれど,これはどの万年筆とも相性がいいし,インクの吸いや発色もまぁまぁ.裏抜けもしない.

・この間,同じくカキモリで作ったノートはフールスにしたんだけれど,(あくまで個人的な好みの問題として)少しペン先が滑りすぎて書きづらい.インクに対する相性は悪くない.

・普段使いの手持ちメモ帳で Rollbahn を持ち歩いているんだけれど,これがびっくりするほど万年筆と相性がいい.いままで,あまり万年筆で書くことなかったんだけれど,万年筆とセットで使いたいくらい.フィールドで乱暴に扱うから,まぁ,そんな機会は訪れないけれど.

・トモエリバーはペラすぎてめくりづらいから,昔から好きではない.書きやすいのは認めるけれど,紙は厚い方が好きなの.

・新たに,最近(?),話題の MD ノートを買って試してみたんだけれど,これが,まぁ,最悪な書き味.普段,雑多な作業(実験)記録に使っているコクヨのスタンダードな中性紙以下.何より,インク乗りがめちゃくちゃ悪い.どの万年筆でも,ペン先がぶっ壊れたのかというくらいの頻度でインク抜けする.突っ掛かりも多い.調子がいいときのサリサリする書き音は気持ちいいんだけれど,すぐにインク抜けを起こすから,書いていてすごいイライラする.

・Rhodia は可もなく不可もなく.ただ,少し滲む気がする.まぁ,Rhodia は,一時期,野帳をこれに統一しようと思ったけれど,あまりしっくりこなくて,いまでは,そのときに買った数冊がほとんどデッドストック化しているだけで,ほとんど使っていないので,どうでもいい.

結論として,昔から定評のある紙が書きやすいということで,最近話題のものって,所詮,その程度のものよね,と.

とりあえず,MD ノートに好意的レビューをしている人間はメーカーの回し者なので,絶対に信用しない方がいいということがわかった.ここまでクソな紙質なのは正直びっくりした.

手書きの文章とワープロ打ちの文章

オカルト的な話であることは否定しない.

……が,手書きで書かれる文章とワープロ打ちで書かれた文章には違いがあると思う.これは,どちらが優れているとか,そういう話ではなくて,例えば,喋り言葉と書き言葉に違いがあるようなものだ.

手書きの言葉と,ワープロ打ちの言葉の違いは確実に存在していると思うけれど,この違いが万人に共通する”かたち”で現れるわけではなくて,個人の資質によって規制される部分が大きいというところが,この論をオカルト化していると思う.

たぶん,「直接,漢字を書く」ことと「変換する」こと,思考の速度と文章を「書く速度」と「打つ速度」の差異,修正の簡易さの問題など,明らかに自分の生理的な呼吸との間に違う行為が挟まれているので,差が生まれる理由は,存在している気がする.あと,漢字を勝手に変換してくれるから,ワープロ打ちの方が難しい言葉を使いがちになるよね(自分だけの症状かもしれないけれど).

例えば,手書きで書いた草稿をワープロに打ちなおすとき,それを強く感じる.私の場合は,ワープロ打ちだと一文が長くなる傾向が著しい.手書きだと,長い文章の整合性が取れないし,たぶん,書いているうちに思考が息切れする.

そう考えると,手書き時代に長いのに美しい文章を書いていた堀辰雄ってすげえな.

年齢に自分を合わせていくスタイル

最近,思うことの一つに,自分もそろそろ,最年少中年としての自覚を持つべきではないかということがある.

明確に,身体や脳は,老化をはじめて衰えてきているのに,いつまでも自分が若いつもりで行動し続けるのは,様々なバランスを崩すに違いない.特に,身体や脳を過信して,ワークライフバランスを崩すのが,この時期に老化に寄り添えないことが原因なのではないかと思っている.

逆に,自分の老化に寄り添えない生き方は,自分が若かった頃,心の底からウザくて嫌いだった「自分は若者の心をわかっている」おじさんでしかない.あれは,考えが古くて頭が硬い頑固親父よりも気持ちが悪い,うざい,老害そのものだった.ああはなりたくない.

そんなわけで,最近は,自分が若い頃,思い描いていた 35 歳なりのスタイルが似合う人間になりたいと思っている.残念ながら,一番のイメージである「毎日,背広を着て満員電車に乗る」人にはなれなかったけれど,格好だけでも目指したいと.(たぶん,急に万年筆を増やしたのは,この辺の意識も裏にある

そんな私が,いま気にしているのが,センスのいい扇子とセカンドバッグ(クラッチバッグ)と普段使いのジャケット.特に,来夏までに「いい扇子」を入手したいと思っている.

老害化の端緒を感じる

私は,昭和末期に生まれた世代で,物心は昭和のうちについている世代です.具体的に言うと,S.58 年生.ちょうど,いま,中年の入り口にさしかかっている年代と言えます.

世代としてくくると,私たちは社会がめちゃくちゃだった昭和末期から平成初期に基本的な人格形成がなされてしまった世代なわけです.この世代の経験した時代は,社会の変遷もめまぐるしいものでした(特に,PC 関連と IT 関連と通信技術).たぶん,我々の世代が,デジタルネイティブではない,唯一,成長とともにデジタル化されていった世代であると言えるでしょう.

で,実は,いわゆるデジタル云々じゃないところもそうだよね,という話.

私たちの世代は,基本的な人格形成が済んだ後になって,はじめて西欧的な感覚による political correct,多様性への寛容,機会均等,男女同権,ジェンダー論……etc. を学んだ世代になっていると思います.たぶん,私たちより上の世代(親世代)は,こんなものを学んだことはないし,私たちより下の世代(子供世代)は,人格形成期にはこういうことを少しずつ学んでいる世代になると思う(ただし,デジタルディバイドよりも遥かに緩やかだから,完全にネイティブに上記のような社会的価値観を身につけられる世代は,いままさに生まれているくらいの世代だと思うけれど).

そんな宙ぶらりん世代の私たちは,親世代や老害政治家のとんでも発言には嫌悪感を覚えるが,男女の性差と社会的ジェンダーの区別みたいなことは体感的にできない.頭を使えばできるけれど,感覚的ではない,という感じ.

例えば,トイレの男女表記が青赤になっていることに違和感を覚えられるだろうか?(まぁ,男女の赤青は日本においてはピクトグラム化しているし,男が青(黒)で女が赤というのもよく根拠が分からない色分けではあるんだけれど.ハレの着物の色とかが起源なのかな?)

例えば,男の子が木に登っている時にはなにも思わないのに,女の子が木に登っていると「危ない」と感じてしまったことはないだろうか?(成長を考えると,子供世代だったら女子のほうが成長早いはずなんだから,本来は,逆の注意をするべき)

(要は,ジレットの CM みたいな話ね)

そういう意味で,いま,自分たちの子供世代が続々と生まれている世界で,私たちは,コロコロと老害への道を転がり始めていると感じる.

2019年1月20日日曜日

センター試験といえば,みたいなのも書いておく?

……とはいえ,結構,過去にもこういう振り返りはしている気がするし,その時より,当時の記憶は不鮮明になっているから,今更な気はする.

……と思って,ブログとかを振り返ってみたけれど,意外とセンター試験だけの思い出って書いてなかった(むしろ,二次試験の時期に思い出話書いている率が高い).

センター試験は,千葉大の理学部棟で受けたんじゃなかったかと思うんだけれど,自分の前後,しばらく,自分と同じ名字の人がずらっと並んでいて,「ああ,あんまり自覚なかったけれど,自分の名字ってやっぱり多かったんだなぁ」とぼんやり思ったのを覚えている(同級生の同性の人との間(名前の頭文字「け」と「た」の間)に何人も人がいたので,それなりに多かったのだろう).一応,全国順位で 10 位前後(調査によってブレがある)なので.

まぁ,よく聞く「高橋部屋」とか「佐藤部屋」ほどではないけれど.ちょっと,衝撃的だった.

ちなみに,私は,下の名前も珍しくないので,漢字まで含めた同姓同名が結構います.一時期,同じ研究室に名字かぶりの人と名前かぶりの人がそれぞれいたくらいだしね.

……というか,これ,センター試験の思い出話から随分とずれてるね.というか,本当に記憶がない.

センター試験の日,らしい

というわけで,自分がセンター試験を受けた頃のことを,例のごとく,辿ってみようと思ったんだけれど,もう 17 年も前の話になるのね.

17 年前というと,いま,35 歳の私からすると,だいたい,人生の半分,折り返し地点になるわけだ.そういう意味では,それ以前の自分と,それ以降の自分は結構変わった生き方をしてきたような気がする.少なくとも,18 歳,高校 3 年の頃の自分は,自分が地質学者になるなんてこれっぽっちも考えていなかった.というか,地質学なんて学問は認識していなかった気がする.もっというと,化学とか物理とか,清廉な化学こそが美しいと思っていて,地質学みたいな雑で不細工なものに美学を見出していなかったというか(まぁ,この辺は長くなるので割愛).

そもそも,35 歳まで生きているつもりなんかなかったよね.そういう意味で,いま現在は,晩年,余生を生きているようなもんだし,実際,そう思っているから,その辺の,自分の生き方の芯の部分は変わっていないとも言えるのではないだろうか.

2019年1月19日土曜日

どろろ

手塚の,ブームに踊らされて書いた自称・大失敗作が,今期の天下を取ったら,それは面白いことだと思う.

2019年1月14日月曜日

元号

ついでで言っておくと,個人的には,元号を意地でも(実用面でも)続けるという態度は嫌いじゃない.ただし,過去にたった 4 回しかやっていない「一世一元」という伝統(笑)にこだわるとか言っている人は滅んで欲しい.というか,とっとと決めて発表しろ.

公的書類とか,いろんな場で,西暦と元号が両方とも使われるのは,確かに不便で面倒なんだ.ただ,不便だし,面倒臭いんだけれど,その面倒くささを感じられるという感覚を利便性の名の下に失いたくはないんだよね.

この感覚がおかしいとは思いたくない

新元号の話題.平和な世を願うということなんだろうし,その願い自体を元号に込めるというのは否定する気はないけれど,平和を願うから元号を「平和」にしようという安直さというか,気持ち悪さというか,頭の悪さというかは,決して,認めるわけにはいかない.

最近気づいたこと

メモは便利.

自慢ではないけれど昔から記憶力はいいので,人から言われたこととかあんまり忘れることがなかったので,メモとか真面目にとっていなかったし,仮にとっていたとしても,見返すことはほぼなかった(機械の操作ノウハウとか,実験の手法とか,重要な案件は別ね).

ところが,30 も過ぎてくると,自慢の(?)記憶力も寄る年波に勝てず……というか,思い出す体力がなくなってきたというか,見返す前提のちゃんとしたメモをするようになったし,見返すことも増えた.そういうわけで,便利さを痛感している.

2019年1月12日土曜日

耳をすませば

……は,恋愛の話ではなくて,思春期に普遍的にある自己実現へのもがきの話であり,ものをつくるということの悲鳴のようなものだと思っている.だから名作.

ぶっちゃけ,恋愛部分って,イケメンが美少女と出会った,という以上のものではないわけで.

年が変わりました

年が変わりましたが,私は何も変わりません.