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2022年6月1日水曜日

相似な事象

 10数年前から観測されているけれど,ここ数年に顕著になった事例のひとつに「ファスト映画(※)」がある.映像の n 倍速再生とかも,この仲間かな.

※大前提である著作権侵害とかの部分は,今回の話と関係ないので,とりあえず置いておく.

私は,バックボーンとして元映画オタで,映像作品が大好きなので,そもそも,単にあらすじだけを追いかけるようなコンテンツ消費とか,n 倍速して「作られた時間」を無視するような視聴姿勢などを理解できないし,いかなる理由でも賛同するつもりは一切ないです.別に,そういう人と喧嘩する気はないけれど,根本的な思想や宗教が違う人なんだと思います.

ただ,よく考えると,近年になって動画編集技術が簡易化したり,機器に n 倍速再生機能が標準化したことで,いわば「要約」「時短」界の最後の牙城だった映像コンテンツが要約できるようになってきたので,こういう議論が沸き上がっているだけだよな,と最近になって気付きました.

昔から,相似な事象はいっぱいあって,はるか昔から長編小説のダイジェスト版みたいなものはあったし,様々なジャンルで「n 分で完全理解」みたいなものはベストセラーになってきたわけです.もう少し広げると,例えば,音楽を聴いているときに主旋律やボーカルの歌だけを聴く人とか,絵を眺めているときに背景知識などに一切興味を持たずに絵面だけを眺めて通過してしまう人なども,対象とする媒体は違っても,全体を構成するもののなかで目立つものを消費して終わるという意味で,同じ種類の人で,それらは古くからいるし,誰もがなにがしかのジャンルにはそういう態度を取っている面があるのだなと気付きました.だって,例えば,ほとんどの人は,その辺に落ちている適当な石ころを眺めて楽しむこととかできないでしょ?(私は地質の知識があるので,かなり楽しめる)

まぁ,そういった触り方しかする気がないジャンルに,わざわざ手を出す理由も分からないし,あらゆるものに対して触ることくらいしかしない人は,最早,理解の外だけど.

2020年3月21日土曜日

ばるぼら

手塚漫画の中で最も好きなものを1つ挙げろと言われたら,一瞬の迷いもなく「ばるぼら」と即答できるくらい,「ばるぼら」が好きです.というか,手塚漫画に限らず,あらゆる創作物のなかでもトップクラスに好きです.

で,それが映画化されたということを,ついさっき知ったわけです.

意外に思われるかもしれませんが,美倉センセを稲垣吾郎氏が演じるというのは悪くない配役だなと思ったのですが,予告編を見る限りだと,バルボラ役が…….そもそも,日本人なの?という.

手塚眞氏は,まぁ,親の七光以外のなにものでもない三流〜二流の映像作家なので,演出面は何の期待もしていないのですが(「白痴」は結構頑張っていたと思うけれど),'90 年代香港映画(日本映画を抜き去った頃)を特徴付ける,あの雑然とした雰囲気を色(淡い青味,赤味を行き来する感じ)をコントロールして鮮烈な印象を持った映像に切り取るという技術で一世を風靡したドイルの撮影という点は期待が持たれる.

※有名どころは「恋する惑星」「ブエノスアイレス」あたり.とんと映画から離れているので,最近のはあまり見ていない.

2019年3月24日日曜日

他意はない

ちょっと不細工な女の子が,めちゃくちゃベタなコード進行で,なんの捻りもないどストレートな自分見つけちゃいました系歌詞をがなるのが定期的に流行るのは一体どういう現象なんだろう?そろそろ,だれか,分析して現象に名前をつけない?

個人的には,こういう系より,西野カナの方が作詞家として評価できると思っている.

2019年2月8日金曜日

うざい人になってみる

某漫画家(というか,自分がその人を知ったころは,主に 2ch に生息する趣味の悪い,頭のおかしい(褒め言葉)絵描きの一人だったのだけれど)の書いているキャラに,とうとう CV がついたという話を聞いて,すごい時間の流れを感じる.

特に,自分はこのキャラが生まれ落ちたころから知っているレベルに追っかけているので,なんか,すごい変な気分.→ 証拠

でも,まぁ,昔から見ている人間からすると,一般誌に連載されるようになって以降の長瀞さんは,初期から知っている身からすると,まぁ,別物だよね……とか,うざい人になってみようと思ったんだけれど,敬愛する天才声優・黒沢ともよ先生の演技が最高だったので,なんか,どうでもよくなった.

教養ってなに?

教養って何かといえば,僕は,結局,会話が成立するかどうかということだと思っている.会話の前提といってもいい.

古典の話で言えば,「春はあげぽよ」というギャグが面白いためには,枕草子を知っていて,その解釈をなんとなく知っていて,あけぼのとあげぽよがダジャレになっていることに気付けて……という前提となる知識が必要なように,教養の程度の違いは会話を破綻させる.

大人になると,徐々に,人は同質な集団のみとしか関わらなくなるので,なかなか認識できる機会はなくなるんだけれど,教養というバックボーンが大きく違う人と会話をする機会があると,あまりにも会話が成立しなくて驚くことになる.サイエンスの業界で,(それが適当なものであるかはともかく)サイエンスコミュニケーションというものがあるのは,科学者が(教養というレベルを超えて)専門的に過ぎるのを,どうにか義務教育レベルに伝達するためだ.そういう差が,教養のレベルでも生じる(落差は違うけれど).

例えば,少し前に,「三角関数は必修にいらない」みたいな話題がバズったことがあった(誰がきっかけだったか忘れたけれど).

ご存知の通り,三角関数ってかなり多くの仕事で「使われている」わけだけれど,それを教養として「知っている」かどうかで,上記のような議論になった際に会話ができなくなって,議論が成立しなくなってしまう.実際,上記のネタがバズった際に,そこかしこでそういう議論不調を見かけたものだ.この話で面白いのは,実際に三角関数に仕事で使うかどうかではなくて,「三角関数が非常に多くの分野に使われている」という教養を持っているかどうかが差をつけている,ということだ.

で,なんで教養の差が会話の不調を生むのかについては,また,別な機会で.
(教養が足りないと経験に依存するという話)

2019年2月7日木曜日

古典とか

古典を必修から外す(かもしれない)というニュース.

古典に限らず,教育内容について変更があるというのは,そう少ないことではない.例えば,僕の世代(いま,30 台半ば)は,高校数学から微分方程式がなくなった初期の世代だった(高校物理では暗黙の了解で使うのに,数学では触れられないという不思議).大学に入ってすぐの頃には,教養部の微積担当の先生にしつこいくらい「君たちは意味もなく微分方程式に触れることができなかった世代」と言われたものだ.

教育において,必修内容を削除するということは,多くの子供から機会や可能性を奪うということであると認識しなければならない.

与えられた知識が無駄になってしまうのは,個人の選択や個人の能力の問題だが,「無駄になりそうだから」と父権者が取り上げてしまうのには,本当に慎重にならなければならない.(例えば,僕は与えられた世界史の知識の大部分を無駄にしているが,不要だったと思ったことはない)

で,冒頭の問題.

古典を取り上げるのは,本当に「春はあげぽよ」みたいなギャグで笑う機会を取り上げるだけですむことなのでしょうか?

2019年2月6日水曜日

夜のプールと金魚と女子高生

だいぶ前に,夜の学校のプールに女子高生が忍び込んで金魚をプールに放して泳ごうとしているところを,不法侵入で逮捕だか補導だかされた,というニュースがあった.

なんか,その「夜」「学校のプール」「金魚と泳ぐ女子高生」っていう単語の並びから想像される情景が,あまりにもバカバカしくて,美しくて,エロくて,青春で,いつかこの情景をモチーフにした小説とか書きたいと思ったものだった.

で,最近知ったんだけれど,すでに「学校のプールで金魚と泳ぐ女子高生」って映像を撮っている人がいた.完全にツボが一緒の人っているものなのね(笑).ちなみに,その映像(たぶん映画)が,いつ頃の作品なのかとか知らないのと,くだんのニュースがいつのものだったのか記憶が曖昧なので,もしかしたら,事象の前後関係が逆なのかもしれない(映画に影響された女子高生がやらかした).

ちなみに,僕の中で,このニュースが強烈な印象を残しているのは,オチとして「金魚を放して一緒に泳いだらすごく綺麗だと思っていたけれど,実際には,暗すぎて何も見えなかった」みたいな捕まった女子高生のコメントが載せられていたせい.

もう,バカすぎて,何もかも超越した美しさ,尊さだと思わない?

2019年1月27日日曜日

老害化の端緒を感じる

私は,昭和末期に生まれた世代で,物心は昭和のうちについている世代です.具体的に言うと,S.58 年生.ちょうど,いま,中年の入り口にさしかかっている年代と言えます.

世代としてくくると,私たちは社会がめちゃくちゃだった昭和末期から平成初期に基本的な人格形成がなされてしまった世代なわけです.この世代の経験した時代は,社会の変遷もめまぐるしいものでした(特に,PC 関連と IT 関連と通信技術).たぶん,我々の世代が,デジタルネイティブではない,唯一,成長とともにデジタル化されていった世代であると言えるでしょう.

で,実は,いわゆるデジタル云々じゃないところもそうだよね,という話.

私たちの世代は,基本的な人格形成が済んだ後になって,はじめて西欧的な感覚による political correct,多様性への寛容,機会均等,男女同権,ジェンダー論……etc. を学んだ世代になっていると思います.たぶん,私たちより上の世代(親世代)は,こんなものを学んだことはないし,私たちより下の世代(子供世代)は,人格形成期にはこういうことを少しずつ学んでいる世代になると思う(ただし,デジタルディバイドよりも遥かに緩やかだから,完全にネイティブに上記のような社会的価値観を身につけられる世代は,いままさに生まれているくらいの世代だと思うけれど).

そんな宙ぶらりん世代の私たちは,親世代や老害政治家のとんでも発言には嫌悪感を覚えるが,男女の性差と社会的ジェンダーの区別みたいなことは体感的にできない.頭を使えばできるけれど,感覚的ではない,という感じ.

例えば,トイレの男女表記が青赤になっていることに違和感を覚えられるだろうか?(まぁ,男女の赤青は日本においてはピクトグラム化しているし,男が青(黒)で女が赤というのもよく根拠が分からない色分けではあるんだけれど.ハレの着物の色とかが起源なのかな?)

例えば,男の子が木に登っている時にはなにも思わないのに,女の子が木に登っていると「危ない」と感じてしまったことはないだろうか?(成長を考えると,子供世代だったら女子のほうが成長早いはずなんだから,本来は,逆の注意をするべき)

(要は,ジレットの CM みたいな話ね)

そういう意味で,いま,自分たちの子供世代が続々と生まれている世界で,私たちは,コロコロと老害への道を転がり始めていると感じる.

2019年1月14日月曜日

元号

ついでで言っておくと,個人的には,元号を意地でも(実用面でも)続けるという態度は嫌いじゃない.ただし,過去にたった 4 回しかやっていない「一世一元」という伝統(笑)にこだわるとか言っている人は滅んで欲しい.というか,とっとと決めて発表しろ.

公的書類とか,いろんな場で,西暦と元号が両方とも使われるのは,確かに不便で面倒なんだ.ただ,不便だし,面倒臭いんだけれど,その面倒くささを感じられるという感覚を利便性の名の下に失いたくはないんだよね.

2018年11月28日水曜日

長さ

最近,時々,手塚漫画を読み直すことがある.そのたびに思うのが,とにかく「短い!」ということ.

いい悪いの話ではなくて,とにかく,手塚漫画って短い.後期,「ひだまりの樹」あたりは,わりとだらーんと間延びしている感はあるけれど,それでも,あれ KC サイズの 10 巻くらいでしょ?

「火の鳥」なんて,改めて読み返すと,各編が短すぎてビックリする.本当に短い.頭の中に残っているかつての記憶の 1/5〜1/10 くらいのイメージ.昔,浦沢直樹がアトムの中編を,脳内で勝手に付け足していたストーリーを交える形でリメイクしたりしていたけれど,そんな感覚に近いかもしれない.

それに比べて,今の漫画のなんと長いことか.長いことがすなわち悪いという話ではないんだけれど,「本当にその長さは必要なのかい?」とは思う.あげつらうわけではないけれど,20 年近く連載している少年漫画,というかぼかさず書くけど,ONE PIECE なんて,その長さに意味あるのと言いたくなる(誰が継続して読むのよ,と).

長編を書くより中編,中編を書くより短編を書くのが難しい,とはよく聞く言説だけれど,結局のところ,エッセンスを編集するという能力が現代人から欠落してきているんじゃないのか,と思う.だだらに続くアニメやドラマと,2 時間の映画の対比とか,近似できる気がする.

たぶん,その背景に,記録媒体の変化とか,視聴環境の変化とか,諸々絡んでいるだろうし,これに絡んで(書きながら),いわゆる「日常系」とか「美少女動物園」的なアニメとかに関する論も思いついてしまったのだけれど(長くだらだら書いてもいいという感覚と,永続的に続いて欲しいという感覚の相関とか諸々),どんどん長くなるので,この辺は,いずれどこかに書くかも.

思考のクリップとして,とりあえず,ここに書き散らしておく.

ばんぱくばんざい

大戦で一度荒廃した日本が東京オリンピックと大阪万博で輝かしく花開いて,東京オリンピックと大阪万博で花と散るのではないかと思うと,すごい話だな,と思います.

あ,誤解されないように言っておくと,万博そのものは日本でやるなら眺めに行っても面白いかも,くらいには楽しみです.五輪はべつに…….

あと,(同意見多数だと思うけれど)浦沢直樹が「今時,万博って……(意訳)」という発言をしたってニュースが地味にツボ.

2018年8月28日火曜日

初音ミクとの結婚とかの話

二次元キャラとの結婚についていつも思うんだけれど,結婚という,本来,当事者2人が合意のうえで手続きする制度に対して,片方の欲求に従って結婚という自己満足を得る行為って,あまりに一方的かつ暴力的な感情過ぎて,少し引く(ただし,ラブプラスを除く).

非実在少女の人権とかそういうことをいうつもりはないんだけれど,キャラと結婚したいと感じる程度にキャラを「人扱い」する(させる)のに対して,キャラが「自分と結婚したい」と思っているという思い込みの暴力的な傲慢さというか,キャラを「人扱い」するのに対して,キャラの「感情」は自分勝手に規定しているというダブルスタンダード状態とか,なんか,そういう部分が受け入れられない.

2ch のコピペだったか,同人作品だったかで,「物語に入り込める能力」を手にしたおっさんが,物語に入って好きなキャラに出会ったけれど,その好きなキャラは「物語上の思い人」を求めていた……みたいなネタがあったけれど,そういう感じ.

2018年8月19日日曜日

せまい有限

最近,立て続けに貴重な文献や記録が廃棄されてしまったというニュースを耳にする.それについて,批判をするのはたやすいし,(特に大学や研究機関に対して)「それでも学問の府か」と批判したくなる気持ちもわからないわけではない.

ただ,金銭的にも,空間的にも,資料を適切に保管し続ける能力は,非常に狭い有限なわけで,特に,それらが不足している地方大学や国の公的機関に対して,金も何も出さずに「批判」を叫ぶなんて,本当に無責任だと思う.

2017年3月20日月曜日

Chuck Berry

Chuck Berry が死んだ.大往生なので,悲しいとか,そういう感情ではないんだけれど,ロックの歴史そのもののような人であって,かなり最近まで元気に演奏している姿を見せていてくれた人でもあって,なんか,不思議な喪失感がある.

でも,この世間的な訃報の扱われなさはなんなんだろう.

ロックが好きなので,わざわざ言うまでもなく,Chuck Berry は大好きだった.言うまでもなく,ロックンロールの草創期の巨人の一人であり,その中でも,頭一つ抜けたロックンロールそのものという人だったと思う.ロックの殿堂の選出理由を挙げるまでもなく,ロックの始祖に限りなく近い存在なのは間違いない.

ロックなんて概念のない時代,持ち前のポップなセンスとリフスタイルのギタープレイで,明確に「若者」と「ダンス」に焦点を絞って R & B を別次元へ押し上げたことが最大の功績.何が言いたいかというと,同時期のロック創始者と呼ばれる人々の演奏の中でも抜きん出て,いまでも通用する "ロックらしさ" を感じさせるということ自体が,Chuck Berry という存在の大きさそのものだと思う(いまでも通用するというのは,曲がではなくて,いわば,いまでも "Rock or not" の試金石になっているということ.流石に Chuck Berry 大好きな私でも,古臭い曲であることはわかっている).

例えば,リフロックの教科書の様な Johnny B. Goode や Rock and Roll Music をカバーするミュージシャンは,現在でも少なくないだろうけれど,Buddy Holly や "KING" Elvis の曲をカバーするアーティストはほとんどいない(もちろん,不幸な飛行機事故がなければ Buddy Holly だってそういう存在になっていただろうけれど).例えば,ダッグウォークに代表される特徴的な歩き方での観客の煽り方,ソロの時に縦にしたギターを高く掲げる姿,ギターを上下に揺するような演出などなど,いまでも見かけるロックギタリストのアクションの基礎も作った(もちろん,ロックの胎動がはじまる頃のミュージシャンの総体的な産物ではあるけれど,間違いなくいまに伝えた功績は Chuck Berry のものだ).

それなのに,この訃報の軽い扱いはなんなんだろう.少なくとも,日本では,ほぼ話題になっていないといっていいレベルに感じる.なんだか,それがロックそのものの衰退の象徴のようで,なんだか,妙に悲しい.

個人的に,一番大好きな,Sweet Little Sixteen を聞きながら.

2016年6月2日木曜日

林道の話

下衆の勘ぐりはその道のプロのネット民に任せて,性善説に立って話をすると,例の行方不明の男児,あまりにもなんの手掛かりがないあたり,置き去り地点を親が間違えている可能性がものすごく高いよね,と思っている.

一応,僕は,北海道の林道のプロに近いような人間だし,ニュース映像に一瞬映った Google Earth の衛星画像から,(割と何度か仕事で歩いている地点に近いからというのもあって)具体的な場所が特定できたくらいの能力を持っているけれど,そんな僕でも,林道を走っているときは,割りと真面目に頭を働かせながら走っていないと,林道の正確な地点や,曲がった三叉路,十字路の位置とかがわからないくなることがある.

それは,林道に入ってからもそうだし,それ以前の,国道から道道に入った地点,道道から町道や農業道路に入った地点,さらに林道に入った地点,どこでもそうだ.そして,また,そのそれぞれの入り口の様子がどこもほとんど変わらないうえ,地図に載っていない林道(作業道)が山ほどあるのだ.

置き去りにした地点を盛大に勘違いしているという可能性は,かなり高いし,むしろ,曖昧な記憶に依って決められた地点に固執するほうがどうかと思う.

さすがに,もう,無事ということはほとんどあり得ないのだろうけれど(特に,ここ 2 日の夜の気温は厳しい),せめて,本当に最後まで見つからないとか,ネット民の下衆な勘ぐりが真実になるとか,そういうのは,なんか悲しいので,ないことを祈る.あの辺,歩きづらくなるし.

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追記(20160603):無事に保護されたニュースにびっくりしたけれど,とりあえず,良かったね,と.駒ヶ岳演習場に続く林道は,基本的に一般人の立ち入りを制限しているはずだから,あの初動で「山菜採り」と嘘をついたおっさんのこと,立ち入り禁止の林道に進入して,放置したことがバレるのを避けたパターンで,捜査の途中から「駒ヶ岳中腹」とか言い出したのは……というのは下衆の勘ぐりになるので,やめます.

2016年5月30日月曜日

国民的番組

なんつーか,「あ〜あ.やっちゃった」という感じ.

まぁ,立川流ということはないと思っていたけれど,林家をさらに増やすとは思わなかった.個人的には,その世代だったら花緑師匠が適任だったんじゃないかと.びっくりすることに,いま,柳家いないからね.他にもこの世代だと,古今亭菊之丞師匠でも,他とキャラがかぶらない上品なキャラとかでいけたかな,とかも思う.

まぁ,少なくとも,当代三平はない.終身名誉こぶ平のほうがマシなレベル.

2016年5月25日水曜日

科学はある種のロマンを駆逐するけれど,科学もロマンだよねという話?

ニューネッシーというものがある.なんでこんな古いネタを持ち出すかというと,最近,そんな過去の記事を回顧したうえに,ニューネッシーみたいな UMA に想いを馳せるのは素敵だねという内容の記事が朝日新聞に掲載されていたからです.もっというと,こんなバカネタ読み物記事に「科学的な事実を無視している!」みたいなマジレスをしているかわいそうな人を見たからです.

まぁ,マジレスした人と同じように「あの,ウバザメね」と一言で済んでしまう話なんだけれど,それは非常に面白みがないし,たぶん,意味もない.

確かに,アレ自体は,得られている科学的なデータに基づけば,ウバザメの死体と結論づけるだけの物体なんだけれど,アレを読み物のネタとしてイジることに,科学的にウバザメという結論が出ていることはどの程度意味があるだろうということ.

別な話をしましょう.

恋人と二人で,空の星座を指でなぞりながらいい雰囲気になっているカップルの隣で,星を眺めながら,星座っていっているけれど地球から見上げる天球面に並んだ星をつなげて人が勝手に絵を描いているだけで,三次元的に見ると全然バラバラなんだという内容を本を読んで知っているおっさんがいたとして,それが二人のロマンスを変えますかということ.

もっと言えば,かわいい女の子が,「血液型占いだと私とあなたは相性がいいみたい」って話をしてきたときに,「血液型と性格に相関はない」という返事をしますかということ.

科学とか理系とかって,そういうイメージを持たれているし,事実として,そういうレベルの低い発想をする人もいなくはないんだけれど,人間的な感情とか,別な側面で眺めたときに面白くなるものを,科学なんてたったひとつの基準だけで何から何まで否定する必要はないと思うわけです.

最後に,タイトルへの返答.

「いや,ムーにマジレスして,何が楽しいのよって話ですよ」

※なお,僕はオカルトマニアです.

2016年5月13日金曜日

訃報に思う

だいたい,訃報に接すると「また,大御所が……」とか「昭和が遠くなるな」という気分になるけれど,基本的に,死ぬ人は高齢者で,死んだことが大々的に報道される人は,著名人なんだから,そりゃ,大抵の場合は,大御所が亡くなったニュースになるよね,と思い直した.

どうでもいいことなんだけれど,僕の見たときに 2 つの訃報に挟まれて,某元プロボクサーの急性アル中のニュースがあって,思わず,「あー,死んだんだ」としばらく勘違いしていた.

2016年5月12日木曜日

憲法 9 条を誇るという恥

昔から疑問なのは,憲法 9 条を誇りだと思うという風潮.まぁ,どっかの活動的(笑)主婦が始めた,ノーベル平和賞云々の話に関してなんだけれど…….

(いうまでもなく,僕は,右よりだし,改憲論者(9 条だけのことじゃなく)なんだけれど,そういう観点からではなく,単純に疑問に思うということ)

この条文の成立過程はどうあれ,基本的に,あの条文って「世界に大きな戦禍を引き起こして,自分たちも大きな被害を受けた」ということに対する,自分たちへの枷とか戒めでしょ?

平和主義や戦争の放棄は,非常に崇高な理念だけれど(これはラジカルな僕でも認める),だからといって,重大な過去への戒めとして作った条文を自慢するというのは,かなり恥ずべきことではないかと思う.

別段,平和憲法がない国が戦争ばっかりしているわけでもなく,逆に日本が,いわゆる終戦以降,戦争をしてこなかった歴史は,憲法があったことが理由ではないだろう.そもそも,戦争の危機に対して "憲法が" 歯止めになった事例なんて存在するのだろうか?

そして,日本が戦争しないというだけの宣言は,究極的に自己中心な価値観で,世界の平和に積極的にはなにも貢献していない,少なくとも他国に誇れることではないという,いわゆる「日本スゲー」系のバカバカしいやつでしかないという,非常に可哀想なオチ.

絶対ないとは言わないけどさ

とある中学生くらいの少年が,奇抜な発想で,しかも,Google Earth を使ってマヤの遺跡を発見したというニュースが全世界を駆け回ったかと思ったら,一瞬で学識者からマジレスを食らって消え失せたという話.

今回のニュースの場合,一報を聞いた時点でリモートセンシングを使って遺跡を探すという学術分野があることを知っていたので(私はリモセンに近しい分野の人なので),瞬時にガセネタ(または少年の錯誤)と判断できましたが,まぁ,騙される人は多かったようで(ニュースの影響力って偉大ね),いつものお決まりの「学者はバカか?」とか「金返せ!」のシュプレッヒコールを方々で見かけました.まぁ,それはどうでもいいんだけれど.

この件で,僕がひとつだけ言いたいのは,数十年前ならいざ知らず,基本的に,どんな分野でも素人が急に最先端の学問領域に新しい風とともに切り込んでくるなんてことはないですよ,ということ.

普通に生きている人には想像もつかないくらい頭のいい人(たぶん,大多数の人は生まれてから死ぬまで一度も会うことがないレベルの人たち.仮に会っていたとしても,その頭の良さを認識できないようなレベルの人たち)が集まって,特定の狭い分野の研究に色々な手法をもって取り組んでいるのが研究の世界です.よく,「素人の柔軟な発想が〜」みたいな言われ方をするけれど,その瞬間までどの学問分野にも属さずに素人でいられる程度の脳みその人に学者より柔軟な発想ができるとは到底思えません.

子供が頑張ったんだから,否定するなみたいな言説も見かけたけれど,研究の世界は,批判や論争を乗り越えてこそ,新たな地平に向かえるものなので,かの少年が,(今回の失敗にめげずに)その熱意を燃やしてくれることを願うからこそ,マジレスが彼には必要だと,僕は思います.

そもそも,この少年の説が世界中に晒されるより前に,この少年の錯誤に気付いている大人はいたはずで,この少年を甘やかして学術的批判を加えなかったことが今回の事態を招いているのは明らかなので,否定されるべきは少年の説への学術的批判を非難する人たちの方だ(そもそも,二年くらい前からの話みたいなので).