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2023年11月5日日曜日

なうぜん感想

令和の世で The Beatles の新曲が出るという不思議.

率直な感想として,まぁ,当時ですら,デモ段階までしか進まなかった曲だよね,という感じ.やや影のあるマイナーな曲調なので,アルバム初見では引っかからないけれど,数回聞いているうちに好きになることもあるタイプの曲.曲として(the Beatles の)アベレージは下回っている.

まぁ,その辺は,Real Love にも Free as a Bird にも言えることだけれど.

この曲については,AI を使った楽曲の復元とかの技術面,(まだ,全然聞き込めていないし,気付いているものも少ないけれど)あの曲のあの部分をこう使っている的な楽曲パズルなど,マニア,オタク的な趣味の方が意味合いとして大きいよね,というところ.

マニア,オタク的な観点以外では聞く価値ない.

2022年6月11日土曜日

自分のことを客観視しないから人は生きていける

 実は先日,仕事がらみでテレビカメラに写ったのだけれど,たぶん,オタク特有の早口でしゃべる 100 kg 超のデブが写っている映像なので,そんな現実は直視せずに生きていたい私は,その映像を見ることはないでしょう(そもそもテレビ持っていない).

なお,すでに放映は終了しているので,たまたま見た人以外は,見ることはないはず.

しかし,テレビに映る仕事の人って,常に自分(の仕事)を客観視しながら生きているって考えると「すげーな」と思う.

2019年3月24日日曜日

劣化再生産

全てが,とはいわない(前提).

その昔,漫画の文化を作ってきた世代が,小説とか映画とかで育って,それらを学んで,漫画にいかしてきた歴史がある.

で,漫画を読んで漫画を学んできた人たちが作る漫画がどうなるのかというと…….

世代

完全に若者ではなくなったという事実は,明確に数字(年齢)で定義される本当の若者と会話をするとわかるんだな,とひしひしと感じる今日この頃.

単純に生きている時代の差だけではない何かが,10年の年齢ギャップにはある.

他意はない

ちょっと不細工な女の子が,めちゃくちゃベタなコード進行で,なんの捻りもないどストレートな自分見つけちゃいました系歌詞をがなるのが定期的に流行るのは一体どういう現象なんだろう?そろそろ,だれか,分析して現象に名前をつけない?

個人的には,こういう系より,西野カナの方が作詞家として評価できると思っている.

2019年2月17日日曜日

芸術との対峙

そんなわけで,連休中は芸術に親しんできたのだけれど,そういう場に足を踏み入れると,いつも感じることだけれども,何故,こうも教養もなく展覧会に足を運ぶ人間が多数存在しているのか,ということ.

まぁ,絵画展なら,まだわかる部分もある(それでもクソうざいけれど).教養がない人でも,意味がわからない人でも「絵だ」程度の感嘆は得られるかもしれないし,具象的描写があれば「何が書かれているか」の表象は理解できるだろうから.

でも,書道に関して教養がない人間が顔真卿展に来るのは違うだろう,と.少なくとも,顔真卿展に来ている書道ガチ勢が,静かに展示を見るのを邪魔する権利は無教養な人間にはないはずだ!(激怒)

しかし,本当に,あーいう奴らってなんなんだろうと思うよね.美術館でも,博物館でも,どこにでも現れるあの生き物たち.

絵でも書でも化石でもなんでもいいんだけれど,それらについて教養が全くないし,現れた展においても学ぶ気もない,そういう行為に彼らを駆り立てるものがなんなのか,本当に,純粋に興味がある.単純に,順当に興味があって来る人の観覧の邪魔をすることが趣味とかなんじゃなかろうか?

自分も博物館に勤めた経験があるので,アレが金を落とすということは知っている.知っているが,貴重な資料や芸術作品をリスクにさらしてまで,本当に,あんなバカどもの金が欲しいのか,と,そういうことを考えてしまう.

まぁ,この辺は,私が,若い人以外に向けたアウトリーチに否定的だからという部分もあるのだけれど,本当に,一考すべき問題だと思っている.

2019年2月7日木曜日

古典とか

古典を必修から外す(かもしれない)というニュース.

古典に限らず,教育内容について変更があるというのは,そう少ないことではない.例えば,僕の世代(いま,30 台半ば)は,高校数学から微分方程式がなくなった初期の世代だった(高校物理では暗黙の了解で使うのに,数学では触れられないという不思議).大学に入ってすぐの頃には,教養部の微積担当の先生にしつこいくらい「君たちは意味もなく微分方程式に触れることができなかった世代」と言われたものだ.

教育において,必修内容を削除するということは,多くの子供から機会や可能性を奪うということであると認識しなければならない.

与えられた知識が無駄になってしまうのは,個人の選択や個人の能力の問題だが,「無駄になりそうだから」と父権者が取り上げてしまうのには,本当に慎重にならなければならない.(例えば,僕は与えられた世界史の知識の大部分を無駄にしているが,不要だったと思ったことはない)

で,冒頭の問題.

古典を取り上げるのは,本当に「春はあげぽよ」みたいなギャグで笑う機会を取り上げるだけですむことなのでしょうか?

2019年1月30日水曜日

抽象的な話

とある海外企業が,日本国内で大金をつぎ込んで行うプロジェクトの話を聞いて(具体に意味がないのであえてぼかす),日本て,本当に貧しい国になったんだなと思った.

同分野の日本企業が,「リスクが〜」を繰り返して,ちょっとだけ手を出して,あっという間に逃げ出すというのを何度も見ていることもあって,特にそう思った.かつては,日本の商社が海外で逆のことをやっていた時代もあったんだよな,と.

金がないというのは,たぶん,(企業の)脳みそや判断力にも悪いことなんだろうな.

まさに貧すれば鈍する.

2019年1月27日日曜日

年齢に自分を合わせていくスタイル

最近,思うことの一つに,自分もそろそろ,最年少中年としての自覚を持つべきではないかということがある.

明確に,身体や脳は,老化をはじめて衰えてきているのに,いつまでも自分が若いつもりで行動し続けるのは,様々なバランスを崩すに違いない.特に,身体や脳を過信して,ワークライフバランスを崩すのが,この時期に老化に寄り添えないことが原因なのではないかと思っている.

逆に,自分の老化に寄り添えない生き方は,自分が若かった頃,心の底からウザくて嫌いだった「自分は若者の心をわかっている」おじさんでしかない.あれは,考えが古くて頭が硬い頑固親父よりも気持ちが悪い,うざい,老害そのものだった.ああはなりたくない.

そんなわけで,最近は,自分が若い頃,思い描いていた 35 歳なりのスタイルが似合う人間になりたいと思っている.残念ながら,一番のイメージである「毎日,背広を着て満員電車に乗る」人にはなれなかったけれど,格好だけでも目指したいと.(たぶん,急に万年筆を増やしたのは,この辺の意識も裏にある)

そんな私が,いま気にしているのが,センスのいい扇子とセカンドバッグ(クラッチバッグ)と普段使いのジャケット.特に,来夏までに「いい扇子」を入手したいと思っている.

2018年11月28日水曜日

長さ

最近,時々,手塚漫画を読み直すことがある.そのたびに思うのが,とにかく「短い!」ということ.

いい悪いの話ではなくて,とにかく,手塚漫画って短い.後期,「ひだまりの樹」あたりは,わりとだらーんと間延びしている感はあるけれど,それでも,あれ KC サイズの 10 巻くらいでしょ?

「火の鳥」なんて,改めて読み返すと,各編が短すぎてビックリする.本当に短い.頭の中に残っているかつての記憶の 1/5〜1/10 くらいのイメージ.昔,浦沢直樹がアトムの中編を,脳内で勝手に付け足していたストーリーを交える形でリメイクしたりしていたけれど,そんな感覚に近いかもしれない.

それに比べて,今の漫画のなんと長いことか.長いことがすなわち悪いという話ではないんだけれど,「本当にその長さは必要なのかい?」とは思う.あげつらうわけではないけれど,20 年近く連載している少年漫画,というかぼかさず書くけど,ONE PIECE なんて,その長さに意味あるのと言いたくなる(誰が継続して読むのよ,と).

長編を書くより中編,中編を書くより短編を書くのが難しい,とはよく聞く言説だけれど,結局のところ,エッセンスを編集するという能力が現代人から欠落してきているんじゃないのか,と思う.だだらに続くアニメやドラマと,2 時間の映画の対比とか,近似できる気がする.

たぶん,その背景に,記録媒体の変化とか,視聴環境の変化とか,諸々絡んでいるだろうし,これに絡んで(書きながら),いわゆる「日常系」とか「美少女動物園」的なアニメとかに関する論も思いついてしまったのだけれど(長くだらだら書いてもいいという感覚と,永続的に続いて欲しいという感覚の相関とか諸々),どんどん長くなるので,この辺は,いずれどこかに書くかも.

思考のクリップとして,とりあえず,ここに書き散らしておく.

ばんぱくばんざい

大戦で一度荒廃した日本が東京オリンピックと大阪万博で輝かしく花開いて,東京オリンピックと大阪万博で花と散るのではないかと思うと,すごい話だな,と思います.

あ,誤解されないように言っておくと,万博そのものは日本でやるなら眺めに行っても面白いかも,くらいには楽しみです.五輪はべつに…….

あと,(同意見多数だと思うけれど)浦沢直樹が「今時,万博って……(意訳)」という発言をしたってニュースが地味にツボ.

2018年11月3日土曜日

教育に関してよくみる言説

特定の学術分野に関して,一般人がトンチンカンな反応をしたりするのを見た際,「◯◯について学校(特に義務教育)できちんと教えるべきだ!」と鼻息を荒くしている人をよくみる.もちろん,社会で共通認識として通用するべき常識的な教養の範囲(=義務教育が担保すべきレベル)は,高く広い方がいいのは当然なんだけれど,指導内容が無限に増やせるわけではないので,そりゃ,限界があるだろーよ,と思う.

そもそも,自称:ふつーの大人の大部分は,義務教育できちんと学習していることでも,ろくに覚えていないので,その「◯◯」についてしっかり義務教育(〜中等教育)に取り込んだとしても,基本的には現状と大して変わらないだろうと断言できる(一般向けの教養系クイズ番組の問題の大部分は義務養育レベルだけれど,それに悩んだりして楽しむ視聴者が大部分なわけで).

さらにいうと,その「◯◯」が義務教育〜中等教育の範囲内で,普通に教えられている内容であることが大半だったりする(ちなみに,高校進学率(=中等教育修了者)は 1990 年代以降,95 % 以上だそうな).それでも,覚えていない人がいて,そういう人がトンチンカンなことをいうというのが現実なのだ.

人間が総じて物忘れの激しいバカであるという巨大な事実の前では,諦観しかない(ので,私は熱くなれない).

まぁ,その程度に,人類みんなバカと思って暮らしている方が平和で,教育とかについても,より建設的な議論ができるんじゃないかと思うんだけれど,どうですかね?

設定

アニメでも映画でも小説でもなんでもいいんだけれど,見ていて,設定がガバガバなものでも許せるというか「こまけぇことはどうだっていいんだよ!」って感じで見られるものと,なぜか小さな設定の違和が異常に気になってしょうがないものがある.

あれ,なんなんだろうね?

2016年4月13日水曜日

この支配からの卒業からの卒業

ニコニコ動画が高校を作ったとかなんとか.そして,そこに多数の若者が集ったそうな.

別に,それ自体はどうでもいいし,高校なんて自分には全く縁のない世界なので,そこに通う生徒も,作った人達も頑張ってくださいってだけの話なんだけれど,ニュースそのものに強烈な違和感がある.その高校のウリは自由であることだそうで,学生の個性を尊重して,学生のやりたいことをやりたいようにやってもらうことだそうな(普通じゃないこと云々は壮大なギャグだとして).まぁ,実際どうなるかは知らないけれど,言葉自体は魅力的なものだし,(既に大人になってしまった人間としては)若者の自己実現を応援してやりたいという気持ちも分からないわけではないのだ.

しかし,ひとつだけ気になるのが,通っている生徒は,「大人が用意した自由という名前の箱」に入ることに,抵抗とか違和感とかがないのかということだ.

いや,大人が用意した箱ということにだけ心理的な抵抗を感じて意味のない無駄な反発をするよりも,セッティングされた環境を享受して利用し尽くす生き方のほうがクレバーなのかもしれないけどさ.

ひとつだけ言えるのは,別にその高校に行くことが自由を保障するんじゃなくて,結局,自分が自分に対して自由かどうかが自分の人生に自由を感じられるかどうかの全てなのだということ.場や箱が重要ではないなんて,大人になった僕には言えないけれど,場や箱が如何に用意されていても,結局は,自己実現の問題なので,逆に,恵まれた環境を用意されているからこそ,自分を見失わずに生きられるかどうかが強く問われるんじゃないかと思ったり.

少なくとも僕は,やりたいことしかやらずに自由に生きてこれたけれど(自分の能力が足りなくて諦めたことは多少あるけれど),それは結局,僕にそれを許すだけの能力があったからだというだけのこと.環境や運が大事じゃないとは絶対に言えないけれど,そもそもの能力は前提なのだ.

まぁ,今の若者にとっての大人って敵や嫌悪すべき支配の象徴とかじゃないのかもしれないという事実に,おっさんは驚いてしまったよ,と要約できるだけのことなのかもしれない.そういう意味で,社会は多分,尾崎から卒業してしまったのだろう.というか,尾崎たちが大人になったというか.

2016年3月30日水曜日

春の気配

気温が緩み,雪が溶け,窪んだ草地にやたらと澄んだ水たまりができ,積まれた雪が溶けて冬の間に累積したチリが濃集して黒ずみ,また,溶けた雪の下から去年の枯葉が舞い,冷凍保存されていた犬のフンなども顔を出す.街の中を歩いていると,大型の家具が粗大ゴミとして並んでいる一方で,まだ,街に慣れていない様子の若者が右往左往している.

そんな,春の気配.

2016年3月11日金曜日

人間の感覚(笑)

囲碁でトッププロがコンピューターに負けたという話.

囲碁は,ゲームのかなり早い段階で人間の脳でロジカルに考えられる範囲を超えて,感覚の世界に入るからこそ,それは人間にしか理解できない云々という話を聞いたことがある.この話を聞いて,なんというか,人間の感覚というものをまるで天啓か何かのように考えているようで,「お前は何を言っているんだ?」としか思えなかったし,脳という貧弱な計算機の限界を「感覚」なんて言葉でごまかしていることが,結局,考えの及ぶ範囲の定石と棋譜のうえで有利になった経験則の積み重ねに過ぎず,計算量がものすごい小さい,むしろ,生物の脳の貧弱さの象徴じゃないかと思っていた(多くの人は,これこそが人間の脳の優位性だとか思っていたようだけれど).

今回,コンピュータの打った棋譜が,人間のトッププロに理解できない場面が多々あった上で,かつ,人間が完敗したという事実は,感覚というのが過去の棋譜の上で明文化されていない経験則の積み重ねに過ぎないということを喝破したので非常に痛快だった.これは,素晴らしい成果だと思う.

今回のコンピュータの思考プログラムは,決して,最適解だとは思わないが(ニュースを読みかじっただけなので,どういうロジックで思考の分岐の枝を端折ったのかもよくわかっていないレベルです),特定のロジックに則って,(もしかしたらファジーな部分もあるのかもしれないけれど)計算が追尾可能な状態で生み出された,「人間に理解できない」手が存在するということが非常に面白い.

むかし,分類ということに関して似たようなことを考えたことがあって,三次元形態モデルを大量にぶち込んだうえで,非常に単純な志向性をもたせた分類プログラムを組んだら,どのくらい人間の感覚に基づく分類と乖離するか,という思考実験をしたことがあった.このとき,コンピュータの吐き出した分類が,人間が「感覚」で作った自然分類とどう変わるかというところに,分類 "学" の先が見えてくるんじゃないかという話とかいろいろ考えていた(し,今も考えている)んだけれど,まぁ,それはまた別の話.長くなるし.

2016年3月4日金曜日

個別事例の不毛

どこかには不幸な人がいて,全員が一定の幸福を享受できないことは,ユートピアから遠く,社会全体にとっても不幸であることは,一応,前提として認めよう,という前書きを置いてから.

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特定断面を切り取った個別事例が不幸であったとしても,残念ながら,そのことをもって,社会的・政治的な問題にすることはできないことがわからない人が多いらしい.そして,それは,その特定断面・個別事例の数をたくさん集めたとしても,少なくとも国民の過半数とか集まらない限り,実は,そんなに影響力としては変わらない(し,そんな大規模な不幸はとっくに改善されている).

そういう点で,特定断面の個別事例は不毛.

そういう事例をたくさんあげることに満足する人は,全くもって,政治に参加していないのと一緒で,そもそも,政治というものに対する知識に欠けすぎている.ハッキリ言ってお花畑だ.

とりあえず,そこにある特定断面・個別事例の不幸を政治的な問題にしたいのであれば,(叶うかどうかはともかくとして)取るべき手続きについて学んでから行動を始めましょう.その結果が今の,こんなに幸福な社会なのだから.少なくともそれは,匿名の SNS で,個別事例を叫ぶことでも不幸自慢をすることでもないはずです.

まぁ,なんで,全ての人が絶対幸福に至れないのかわからない人は(そんなお花畑の人が本当にいるのかどうかはともかく),功利主義哲学とか学んでみるといいかな.ベンサムからでいいよ.

社会主義者・共産主義者は,帰って,どうぞ.

2016年2月12日金曜日

耐え難い重さなのか軽さなのか(または,キモい自分語り)

(だいぶ前に書きかけたのを再編.ひとつ前の記事を受けて)

むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.

実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.

そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).

まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.

さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).

いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.

こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.

とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.

あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.


ふつう

先日,大学兼職場の後輩とタバコ吸いながらくっちゃべっていたことの延長なんだけれど,同世代の人間が,みんな普通に大人や社会人になっていてビビる.

別にいわゆる「普通」という言葉云々の話ではなくて,昔のバカなことやってる時代を知っている人が,目に見える範囲ではバカなことしていないっていうのが,怖い.みんな普通に結婚してるし,みんな普通に仕事してるし,みんな普通に子煩悩になっている(具体例はいくらでもあげられるんだけどこのくらいで).これが,猛烈に怖い.

いや,自分も,普通に結婚しているし,普通(?)に働いているんだけれどさ.

なにしろ,その普通の姿が,まるで自分たちの親世代を見ているかのようだから,本当に恐怖を感じる.だって,みんなの価値観が昔,僕らが見ていた大人そのものなんだもの.それが,とても怖い.みんな「僕ら若者のことなんて『大人はわかってくれない』」って思っていたんじゃなかったの?

「自分はそんな『普通の大人』じゃない」みたいに嘯いている人なんて,もしかすると,みんな自覚もなく「俺(私)は若者の感覚を持っているし,わかってるよ?」っていう,自分たちが若かった頃,一番嫌悪していたクソみたいな大人になっているんだよね.

もちろん,僕自身が,普通に大人になっている(そもそも,僕もすでに 30 をとうに超えている)ことも自覚しているからこそ,漠然とした不安と恐怖に慄いているんだけれど,みんな,この恐怖を感じていないんだろうか?それとも,その恐怖を押し殺して生活しているの?

自由なんてまやかしで,自分を叱ってくれる大人たちからは独立してしまって,もちろん,法律なんて犯すことはできないし,そもそも,生きていかなきゃいけないという現状に身動きが取れないとき,結局,型にはまるのが,結局,一番楽で,その型の中で,ちょっとした模様替えや着替えをすることが自分を個性的に彩る全てになるなんて,もう,絶望しかない.

それを否定するわけでもないし,自ら荒野を歩む気なんてないんだけれど,全部,無かったことにして,例えば,全裸で街の中を駆け抜けるような爽快感を懐かしむくらいは,自分に自由でありたいとは思う(比喩であって性的指向の話ではないよ!).

2015年10月14日水曜日

学習漫画 100 選

学習漫画 100 選というものが公表された.選んだのは日本財団という団体で,大学教員とか漫画家とか漫画評論家とかが選んだらしい.


まぁ,ラインナップを眺めてみると,僕らおっさん世代からは,意外と「いい」もので,実際,これを,今後,子供達に残していきたい「学習漫画 100 選です」と提出されても,それほど「うわー……」感のないラインナップになっている.まぁ,「アレが入っていない」「コレが入っていない」を始めたら切りがないことは明白なので,この 100 タイトルを選んだことには,素直に敬意を表したいと思う(僕の個人的な見解としては,岡崎二郎から選ぶんなら「アフター0」じゃなくて「国立博物館物語」にして欲しかった,というところ).

しかし,コレって,結局,おっさんおばはんの自己満足ライナップだよね,というところが,かなり鼻に付く(確かに面白い漫画ばかりだし,青少年だって,読んだら面白いと感じるとは思うけれど).

こういう風に「おっさんおばはんの自己満足」で押し付けられたものって,例え,それがいいものであっても 10 数年前の僕らって「嫌」じゃなかったか?

この 100 選を見て,漫画という娯楽が,父権的なニュアンスを持つことに嫌悪感を抱いてしまうのは,僕だけでしょうか?