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「災害時は平時じゃない」
残念ながら災害時は平時じゃない.巻き込まれた以上は,もう,覚悟を決めるしかない.正常化バイアスという言葉は聞いたことがあると思うけれど,自分がいま日常ではない空間にいるということを意識的に認識するだけでも,ある程度,精神的な安定は保てるはず.ほんの少しの心の余裕というか準備が,それなりに大きい判断の分かれ道になることもある.
「助けられすぎないでほしい」
これは,あくまでいろいろ(衣食住環境や体力など)余裕がある人に対しての話だけれど,自分で何かができる人は,何もかも助けられる完全なる被災者にならないようにしてほしい.余裕がある人が,少しだけ頑張ることで,幾らかの弱者は救われるはず.
ただし,絶対に無理はしないこと.少し頑張るだけでいい.
「SNS やインターネットの情報は,被災地では何の役にも立たない.というか,そもそもアクセスできない」
もちろん,SNS の効能をすべて否定するわけではないけれど,残念ながら,基本的には気を紛らわす以上の役目なんてなかった.
SNS にアクセスできる状態の人は,被災した全人口に対してかなり少ない.そして,膨大な情報の渦から,ただでさえ真偽のわからない情報が錯綜するインターネットの世界で,的確に正確な情報を見つけることができるほど余裕がある人は,もっとわずかだ.いないと言ってもいいかもしれない.
だから,はっきりという.例え,その時点で正確な情報を拡散しているつもりでも,被災地にとってはほとんど意味がない.そもそも,ドンピシャで価値がある情報なんて,そうそうなかった.
ただし,単純なコミュニケーションツールとして,心の支えのようなものにはなるから,被災した人が見ているつもりで書くならば,ただ穏やかな,日常的なつぶやきをしていてほしい.正直,目の前に現実があるときに,仮想のコミュニケーションツール上でも悲惨な現状なんて聞かされたくないものだ.
「感情はエネルギーを消耗する」
感情を抑えろというのは無茶な話だけれど,感情はエネルギーを消耗する.悲しみとか,そういう,抑えることができない感情はどうしようもないかもしれないけれど,非日常にいるという事実を自分で意識することで抑えられるような類の怒りとか,そういう不毛な感情は抑えたほうがいい.この辺ははじめの災害は平時じゃないというところとも一緒.
「連む人は考えよう」
非日常だからこそ冷徹に連む人を選ぼう.それ以上は言わないけれど,日常に戻ったときに人間関係が壊れたとしても,自分に害があると判断できる人とは絶対に一緒に行動しないことが吉.
逆に,協力できる人とは積極的に協力したほうがいい.一人でできないことのなかに,複数人なら対処できることはいっぱいある.
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自分の被災体験は,家が壊れたわけでも(家のなかも学校の居室もめちゃくちゃで,損害はそれなりに出たけれど),津波を被ったわけでもないけれど,インフラはボンベ配給式だったプロパンガス以外全滅(電気は 3 日目位で復旧した).近所には崩壊したマンション,家屋がいくつか(同一地域内にはアパートからの退去命令が出て避難所生活の後輩もいた),食料・水の供給は,補給所での配給も先が見えない状況(ただし,いろいろ手を尽くして自分用に一週間分くらい食材は確保できていた.水はなかったけれど),車は運良くガソリンを入れた直後で使える状態,という,他と比べるとイージーモードだったけれども,"被災地" がどういうところかが分かる程度の環境にいたから,まぁ,このくらい言ってもいいと思っている.
いま,なんの被害も受けていない人にできることは,被災地に金を送ることくらいなので,そのほかの余計なこと(ネット上のデマ退治だとか,前震・本震の定義問題だとか,政権批判だとか,野党批判だとか,地震の名称問題だとか,そういう,この災害に関わっているつもりになれるようなだけでなんの役にも立たない下らないこと)をする手を一旦止めて,金銭的な援助をしてほしいと思います.お金以外は,大量の食料や生理・医療用品を企業の物流レベルで用意できないのであれば,基本的に役に立たないのも忘れないでくださいね.
以上,取り急ぎ.
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