2015年2月19日木曜日

ふーふべっせい

選択的夫婦別姓の話題が盛り上がっているのは一体なんだろう,とググったら,裁判のニュースを見付けて,なるほど,と思った(←いまここ).

僕自身は,どちらかというと選択的別姓支持派で,この間,婚姻届を書いたときにも「まだ,選択的夫婦別姓って制度化されていなかったんだっけ?」とか思っていた程度の無関心なんだけれど(そもそも婚姻というシステム自体が疑問な人なので),そもそも,姓が異なること(または,姓を変えること)でどの程度影響があるのかがよくわからない.

ただ,この間,婚姻届を書いたときに思ったのは,姓を変えること事態は面倒くさそうだなということと(特に日常,旧姓を用いるとしたときにふたつの名前があるとなおさら),姓を同じくすることに幸せを感じる人がいるのだな(結婚の実感と言ってもいい),ということ.結局,僕の場合は,(手続きが面倒くさいからそっちが変えてねという俺様理論と,姓が変わると色々面倒くさいとされる過去の業績との整合性という観点で業績数勝負に勝ったので)自分の姓は変えなかったんだけれど,可能な限りは結婚相手が旧姓で活動してくれて構わないと思うし,業績数で負けていたらこっちが変えていただろうし,じゃんけんで決めたっていいと思うわけで,(多くの場合は)一生つきまとう姓の選択をよりフレキシブルにするというのは,至極,真っ当な話だと思う.

とはいえ,別姓にしたいと強硬に思う人にとって,姓が変わることで生じる不都合がどれほどの規模なのかというのも,実のところ,よくわからない.現行の戸籍制度を大きく変えるためにかかるコストと照らしたりとか考えると,更によくわからない.姓が変わった人を見たって,「結婚(離婚)したんだな」としか思わないわけで,いんたーねっつのなかった情報化社会以前ならともかく,いまどき,過去の業績を現在の個人とアイデンティファイできないなんてこともほとんどないわけで……(そもそもそういう場での旧姓利用はだいぶ進んでいるんじゃないかと.もちろん,ふたつの姓をもつという不都合はあるとして).

こういう話になってくると,根本的に婚姻というシステムに疑問がある僕ちゃんとしては,そっちをとっとと変えたらいいんじゃねーの,とか思っちゃうんだけれど.

だらだらと駄文を重ねてきてなんだけれど,この件,論争になってしまっているのは,実は「姓」とか「家族制度」とか「現行のシステム」とか,議論や理性で解決のはかれるところではなくて,もっと感情的な部分の "「異質」な人間への生理的な畏怖" にあるんじゃないかと思っている.これだけ選択的別姓支持な僕でも,別姓を維持するためだけにわざわざ離婚してまで事実婚を選択したりとか,裁判を起こしてまで別姓を勝ち取りたいというバイタリティーには,正直,やや違和感をもったりもするのだ(もちろん,その事情は察せるし,違憲判定が出て選択的別姓制度が確立することになれば喜ばしいことなんだけれど).国民の大多数である「別姓を選択したい」なんて人生で一度も考えたことがない人にとって,「別姓に拘る人」や「選択的別姓支持の人」というのは,彼らの人生の中であまりに "異質" で,理性や論理の外にある畏怖の感情を巻き起こすであろうことは想像に難くないし,そういう人に感情を排除した理解を求めても無駄なことなのだと思う.感情ってそういうもんだしね.僕個人は,そういうロジックの外にある感情も大事にしたい人なので,「○○が理解できないなんて論理的じゃない」という論調で,こういう層やその感情を論敵扱いするのは,なんか違う気がするのです.

この辺,「異質」に「同性愛」とか,そういうものを当てはめても同じ現象が起こることなので,「異質」に対する生理的な畏怖というネタで何か書けるかも,とか思ったり思わなかったり.

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追記:この記事を書いた後にちょっと調べてみたら,選択的夫婦別姓は賛成・反対が半々くらいなのね.見付けたいくつかのアンケート結果では,反対がやや多いという程度.

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