2014年8月11日月曜日

イメージを食って生きている

まだ,書こうと思っていることが上手くまとまっていないのでこっち.

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何かを生み出すとか,表現するとかには経験が大事だと多くの人は考えているし,それは,当然,生み出したものに付随する付加価値として意味がある.だから,著名な創作者の多くは,「若いうちに色々な経験をしろ」とか,そういった類いの言葉を残している.しかし,一方で,例えば藤子・F・不二雄先生の言葉の様に「経験をしていない人の生み出すものが見たい(うろ覚えなのでニュアンスで)」という類いの発言も色々ある.いつだったか,宇多田ヒカルが「『First Love』を書いたときには恋なんてしたことなかったよ」的な発言をしたというのも見たことがある.

下世話な話をすれば,人を殺したことのある作家や演技者や視聴者や読者なんてほとんど居ないのにも関わらず,それを表現したり,その表現に共感したり感動したりすることも出来るし,逆に上手く表現できなかったり,それを見て下手だと感じることも出来る,ということだろう.

例えば,表現のなかで演技に焦点を絞る.

演技には,大きく分けてふたつほど大きな潮流がある.ひとつはシェークスピアを頂点とするイギリス演劇の,いわば,如何に素晴らしく脚本を読み上げるのか,という考え方.もうひとつは,いわゆるメソッド演技だ(※).もちろん,もっと細かい分類は出来るし,亜流は無数に存在する(例えば,日本映画の演技っていうのは,世界の演技の潮流の中ではかなり特殊な部類だし,もっと分かりやすいのでいえば,インド映画の演技なんて斜め上の方向に天元突破しているのは見たことのある人なら分かるだろう).

(※)いわゆる演技力とかいわれるのは大抵こっち.概念を説明するのは難しいけれど,役者が役に「なりきって」感情を発露するという考え方.「リアリティー」と言ってもいいけど,やや違って,演技をもって観客を「納得させる」表現をとるということ.例えば,泣きわめいている人間がセリフを発話できるのはおかしいから,セリフを明瞭に言わない,みたいな.ただ,この考え方は役者の精神的な負担が大きくて,色々問題があるとか言われているし,実際に,死者も出している(最近だと,ヒース・レジャーの自殺なんかもこれが遠因だといわれている).

イギリス演劇系の演技とメソッド演技は,一般に,対立とまではいわないけれど,別の方法論だとは思われている.でも,実際,どちらかの演技を極めたような役者は,もう片方の方法論にたっても「上手い」ことが多く,結局,演技(表現)の目指すところは同じだといえる.

じゃあ,その目指すところというのがなにか,ということなんだけれど,それは見る人間のなかの「絶対多数のイメージ」なのだろう.もちろん,何かの演技(表現)と同じ経験をした人もいるし,演技(表現)者がそれを経験したことがある場合もあるだろうけれど(ごく日常的なものであればそれも多いだろう),ぶっ飛んだ,さっきの例を引くなら殺人のような,ほとんどの人が経験したことのない事象を演じる(表現する)ためには,「イメージ」に沿わなければ,それが上手いとは思われない.例えば,リアリティーを極めるために殺人犯にたくさん取材をしたところで,観客の「イメージするリアリティー」とズレていれば,上手い表現とは思われないだろうということ.

僕が分かるところでいえば,「天才」の表現なんかが当てはまる.僕は,ガチの「天才」といえるような滅茶苦茶に頭のいい人を見たことがあるので,「天才」を表現しているものを見てもピンと来ないことが多いけれど(要はちっとも天才には見えない),そんな表現でも評価されているところをみると,多くの人のイメージする「天才」像はこうなんだろうな,と思う.逆に僕が知っている「天才」を役者に表現してもらっても,誰の共感も得られなくて,下手と感じられるんではないだろうかと.

客はイメージを食う生き物である.

だから,客層に合わせて,同じものを表すのに複数の表現が存在するのであるから,逆にいうと,表現者は客層のイメージに合わせて表現しないと売れるものは作れない.よって,漫画家を表現するときには付けペンに墨汁が必須なのだろう.QED.

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