2016年2月12日金曜日

耐え難い重さなのか軽さなのか(または,キモい自分語り)

(だいぶ前に書きかけたのを再編.ひとつ前の記事を受けて)

むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.

実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.

そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).

まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.

さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).

いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.

こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.

とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.

あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.


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