2015年5月31日日曜日

宮沢賢治は好きだけれど,宮沢賢治を取り巻くアレな感じは嫌いなのだ

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4881863.html

単に,「ある牛飼いがものがたる」の対になる締めの言葉以上の意味はないんじゃねーの,と.すぐ思い出せるところで,「やまなし」でも似たようなテクニック使ってるし,他にも起文と結語でくくる形式の話はあったような気がする.宮沢賢治に限らなければ,それこそ,無数に.

とにかく,テクストとして書かれた文字以上のものを考える風潮はとっとと死に絶えてほしい(この書かれていること以上の意味を考えるのって,陰謀論の生じるロジックと一緒なんだよね.陰謀論がはびこるのを防ぐのには科学教育よりも国語教育の方が重要ということなんだけれど,これはまた,別の話).「やまなし」の "クラムボン" とか,(少なくとも高等教育を終了しているレベルの)いい大人が意味がどうこうとかネット上で書いているのを見ると,本当に頭痛が痛くなる.

宮沢賢治の感性や語感は独特だし,彼の文章から立ち上る臭気は日本文学の系譜の中で,かなり特異的な存在だと思うし,なにより,あの物語の中に示される彼の科学的かつ宗教的な世界観は魅力的だけれど,それに纏わりつくような,学術的な研究を超えたところに妙な執着を持って,いち作家以上に神聖視するタイプの "宮沢賢治研究者" とか,そういう存在が大嫌い(名前は出さないけどさ).

あーいうタイプの自称研究者の信者が消え失せないと,そもそも,宮沢賢治そのものがちゃんと評価されない気がするのです.

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